明けましておめでとうございます。

 

 昨年末には色々と胸で感じるところがありました。リンクを貼ったのが元々鋭敏な人が多い場所にしても、みんな反応がすばやくて驚きです。特に電光石火で反応された皆様のおかげで、見てくれたらと思っていた人にもかなり届きました。是非に関わらず様々に、コンセプト集としてこのうえない形で活用を考えていただき本望です。

 

 キャラクターや世界観については、個別の話題はさておき、大元の部分の、個性や魅力を積極的にとっていくスタンスが伝わっていれば何よりです。

 

 もう一つ、巻き込み事故を避けようとしたのはうまくいったのかどうか。どうしてもという部分を除いて、あれでもないこれでもないと書いたり、あえて言及を避けたり……。イベント絡みで自分から誤解をまといにいくケースは、酔狂というかご愛敬として。 

 

 こうおとなしい文章で、何か仕掛けているかというとそんなことはありません。もともとの予定に準じて、ここの更新はこの記事でおしまいです。また次にご縁をいただくとしても遙か先と思います。

 

 今年一年が東方Projectと東方に関わる人たちにとって良い年となりますように。

 

 

序.

 東方儚月抄とは何を描いた物語だったのでしょうか。

 ひょっこり出てきた問いから、やけに長いものを書いてしまいました。照れ隠しに、注意書きを少しのせておきます。

 

 目標はさんざん語られてきただろう儚月抄という存在に、少しでも新鮮さを感じてもらうことです。特に狙いとするのは、長編作品としての構成の深みがどこにあるかを考えるとともに、幻想郷の世界観のベースにあるものを引き出すことです。この点に今なお検討の対象とする重要性があると考えています(読み終わるまでにはきっと納得がいきます)。

 何かテーマがあったとしても、先立つ視点がなければ伏線に気付かないことも多いものです。伏線が一見するとレトリックや言葉遊びに見えるときは特にそうです。まして連載形式ともなれば、見えるものも見えなくなって当然です。

 しかし、それではもったいない。味わうにも批判するにも、踏み込んだ理解を経ることに損はありません。

 以下では、単行本出版時にまとめとして置かれたとみられる巻頭言から出発し、世界観をどう拾うかに照準を絞ってみていきます。余分なニュアンスが混入しないようにするため、本文には隠喩も詩的表現も含みません。代わりに多大なネタバレ成分があるためご注意ください。説明文らしく、シリアスに淡々と進めます。

 

 世界観を読み解く補助線として元ネタなどの背景知識を入れているので、そもそも通常想定されている読者と違う立場から読むことになります。そのため、作品としての評価をどうこうするつもりはありません。*1 博麗神主の立場や真意を読み解こうとするものでもなければ、儚月抄の絶対的な正しい理解を示そうとするものでもありません。あくまで真実は雲の中であり、意味があるのは結論よりも過程の積み上げです。たとえ無数の理解の一つであろうと、事象は確率的に出来ているために海と山も繋げられると言う人もいます(永琳・豊姫)。この文章は、可能な理解を試みる人の叩き台として、一つの世界観を示します。

 

 

 基本的には、作品の構成にみられる意図と直感の言語化が中心です。書かれていることからの理解が中心ですので、部分部分は目新しくないことを述べるにとどまるかもしれません。それで意味不明な点が生じるならば、書き手の力量不足のためです。また文脈をふまえて厳密に読んでも、見方の分かれる点が生じるのはやむを得ません。文化の日を前にして最終的な構想が固まったため、文化色が出過ぎたきらいもあります。納得のいかないところ、わかりにくいところは弾幕がきたと思って華麗に回避することを推奨します。(たぶん後半になるほど増えます。それでもルートとしては、意味不明な部分は雰囲気だけとらえて回避して、頭から最後まで順に行くのがオススメです。)

 それでは、眠っている世界の話をしましょう。

 

 

 以下で取り上げるのは漫画版と小説版です。

東方Project』は上海アリス幻樂団の著作物であり、漫画版『東方儚月抄 Silent Sinner in Blue.』はZUN氏と秋★枝氏、小説版『東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate.』はZUN氏の著作物です(ともに一迅社より)。

 話の展開を裏付けるには本文に照らしていただくのが一番有効と考えたため、その目的上必要とみられる範囲で注などで本文を引用しています。引用の際には、話数の前に漫画版はS(Silent Sinnerより)、小説版はL(Lunatic Runagateより)と略記します。太字強調はすべて引用者によるものです。小説版については単行本化されたものを検討の対象としています。

 

 

 小説版巻頭言は、次のような警句を述べます。

 “考える葦が考えることを止めたのならば、地上は確かに穢れの少ない草原になるだろう。月の民はそれを願うのか。”

 ここで登場する三つの要素は、どのように世界観を特徴づけているのでしょうか。儚月抄と先立つ永夜抄を振り返ると、二重の異変(永夜抄)、二重の囮、二つの封書、二つの望郷など、対となる二要素からなる構成が多くみられます。儚月抄を支える価値観にも同じことが言え、簡単には解決しない二項対立を世界観の中でどう調整するかという点がポイントとなります。

  Ⅰ. 考える葦とその相手

  Ⅱ. 地上の民と穢れの少ない草原

  Ⅲ. 願いについて

 

 

 項目Ⅰは漫画版の引用が多くなるのに対して、項目Ⅱでは小説版の引用が多くなります。言い換えるとこれら二項目が各作品の主題をおおむね反映するものです。小説版を取り上げるにあたっては、個々のストーリーの中にも全体を貫く価値観が表れているという想定の下でみていきます。*2

 ただし、小説版は各登場人物の主観から書かれているため、どの程度全体のテーマに関する記述としてそのまま受け止めてよいかは問題です。

 語り手の基本的な特徴は次の通りです。

  月出身の者=L第一話、第二話、第三話、第六話、最終話冒頭部分

  地上出身の者=L第四話、第五話、第七話、最終話中盤以降

 このバイアスを考慮した上で、複数の人物が共通したスタンスを示しているものが全体の価値観に関わる可能性が高いとみていきます。

*1:単に擁護を目指すものではありません。むしろ残念ながら、儚月抄は新たな不幸を背負っただけかもしれません。その理由はおいおいわかります。善悪でいえば秩序を覆す悪、異変か異変解決かでいえば、当然、異変だからです。ある種の人々からみれば、黒歴史を追う別の動機が見つかるでしょう。正邪はそれを代償と呼びます。幻想郷の異変は、何かのきっかけになってもよいし、ならなくてもよいものです。最大の意義は直接の結果から離れたところにあるからです。

*2:個々のストーリーは独立性の高い小さな物語群にとどまる、あるいは独白や掛け合いには風流さと皮肉の応酬以上に特に意味はないという理解も当然ありえます。しかし、それとは異なる読み方の可能性を示すことが、この文章の狙いです。

Ⅰ. 考える葦とその相手 : 地上の民vs.宇宙と高貴な神々の力(儚い存在vs.絶対的存在)

視点1:儚い地上の者達と絶対的存在をともに讃える世界観

要約:儚い地上の者達の挑戦と未知の宇宙のロマン、あるいは儚い地上の者達の挑戦と神々の力を比較したとき、儚月抄の世界観にとってはどちらも重いものなので、片方の完全な勝利はない。したがって、両方に華を持たせる結果となる(ロケット組は月にはたどり着くがロケットは大破、月の民とは、実力による勝負では神々の力と進んだ科学力を用いる絶対者の側の勝利、知恵では儚い者達の側の勝利となる)。

 

A. ロケット組の戦い――妖怪宇宙旅行

 

□連携による勝利

 宇宙へ行くことは人類のロマンとされ、様々に挑戦と挫折が繰り返されてきました。それは作中でも簡単に実現するものではなく、作中でもロケット組の戦いは宇宙を目指すところから始まっているといえます。

 漫画版でロケットの作成過程をみると、ロケット作りの主導(レミリア)、資料・材料集め(咲夜、香霖)、魔力の器の作成(パチュリー)、様子見と降ろすべき神についての助言(妖夢幽々子)、神降ろしとそのための訓練(霊夢、紫)、永琳を計画に引き込むための漏れない伝達役(藍)*1 、月の羽衣の添付(永琳)、謂われのある星からのロケットの名付け(魔理沙、永琳)と、地上の民の総力を結集して作られていることがわかります。

 こうしてできた三神式月ロケットには、二者尊重&折衷による創造という発想が複数あります。その精神は、仕様を説明する際のパチュリーの言葉「ロケットに限らず魔術は― オリジナルを尊重し そこにさらにオリジナリティを付加して残すのが 我々魔法使いの誇りですから」とレミリアの返答「ロケットも神社も尊重することで そこに自分たちの意匠が生まれるってわけね」(S第六話)のやりとりに表れています。(パチュリーの言葉のベースになっているのは、永夜抄マニュアルのアリスの説明「魔法使いの魔法は常に術者オリジナル」であって、さらには東洋と西洋と幻想の『上海アリス幻樂団』の創作精神なのでしょう。)そうして、コウモリと鳥居のマークが付加され、洋風の内装と注連縄と千社札、神棚を持つロケットがデザインされたのでした。同様に、ロケットの発射にあたっての儀礼(S第十話)も、幻想郷の魔法と外の世界の科学の折衷であることを反映して、神式と、ロケットのモデルを生んだキリスト教国の儀礼双方を反映しています。

 折衷するというのはバランス調整の一種です。鈴仙が笑うような独特なロケットも、バランス感覚の表れとみることができます。幻想郷のロケットは三神式という幻想的発明を組み込むからには、器とするのは科学的にみて不足を感じるロケットがちょうどいい存在です。仮に地上の民が宇宙を目指すのに現実的なスペースシャトルやロケットを用いていたら、感じられる宇宙旅行のロマンは減ってしまいます。高水準な科学の産物にさらに三神を降臨させていたら、なおさら興ざめです。

 ともあれ、地上の者の試みは一応は成功します。外の人類にとって月への到達が大きな飛躍であったように、月に行ったこと、そして未知の世界に行った甲斐あって幻想郷にない海を見たということは、ロケット組にとって重要な成果でした。月到達の価値を裏付けるかのように、月の民が一番恐れている事は、地上の人間が月に来ることだともいわれます(L第三話)。これがひとまずは成功だからこそ、レミリアは月で見た海を幻想郷にも再現して(プール)、住吉三神の神降ろしをした霊夢にお礼をしようとしています。ロケット組は月への到達による勝利の中核部隊であり、境界移動組は酒の奪取による勝利の中核部隊であるために、S最終話「青の宴」は二組の勝利を象徴するプール+酒宴となります。

 

□挑戦の限界

 小説版では、人類は月面着陸は果たしたが月面開発は敗北続きだったという、人類の科学力の限界に関する記述があります。*2

 幻想郷のロケットも、着陸とともに大破してしまいます。咲夜は私たちの目的は月に行くことであって月から帰ることではないとフォローしますが、往復自由であってこそ月旅行だろうという意味では、不完全な達成です(S第十二話、ロケットの残骸とともに海でたそがれる霊夢魔理沙)。これが幻想郷の科学と魔法の限界でした。小説版でも、月旅行としては部分的成功だったことを裏付けるものとして、普通の人間としての魔理沙は月旅行は懲り懲りだという感想を持っています(L最終話、p183以下)。

 

□人妖と宇宙の均衡点

 外の人類の宇宙への挑戦と幻想郷の月旅行は、なぜ成功と限界の両方が描かれているのでしょうか。一つの答えは、地上の者達が時に成果を上げつつも宇宙を制するには及んでいない、両者のバランスを表すものだということです。

 人間の抱くロマンの難しさとして、文明の進歩で何かを容易に実現できるようになれば、同時にそこから感動もロマンも失われてしまいます。小説版のあと書きにも、日常化したものにはロマンを感じないという見方が示されています。*3 外の人類の宇宙への挑戦がなぜ称賛されるのかといえば、広大な宇宙が絶対的存在と目され大きな目標となってきたためでした。二者を折衷する発想がロケットのそこかしこに表れていたように、部分的成功の結末は、地上の者の可能性の称賛と宇宙旅行への憧れを取り持つ、バランス感覚の表れといえます(バランスの調整について、項目Ⅲに関連)。

 ここであえて地上の者と宇宙を対置して理解するのは、儚月抄で繰り返し表れる思考方法の導入です。以下の文章でも、地上の者を片側におき、儚い者vs.絶対的存在といった二項対立の構図を念頭にみていくことになります。

 

 

B. 月の民の戦力――綿月のスペルカード

□高貴なる月の民

 月の神Lunaがとても強い。このことは、高難易度のモードLunaticの存在からして、譲れない一線だったのかもしれません。儚月抄ではその内実が明かされ、月の民は、地上より遥かに進んだ科学力と強靱な生命力、妖怪には手に負えない未知の力を持つとされています。戦力としての科学力の例には、森を一瞬で素粒子レベルで浄化する風を起こす豊姫の扇子や、銃器の類があります。強靱な生命力は、穢れがないために寿命もないことが最たるものです。そして、妖怪には手に負えない未知の力として、作中で念入りに描写されているのが八百万の神々の力です。

 一般に東方の世界では名前や謂われが重要とされるところ*4 、月の民の綿月豊姫・依姫とその使役する神々には、日本神話上の最強クラスの由来が与えられています。綿月家の姓の由来と考えられる綿津見大神、姉妹の名前のモデルである豊玉姫神玉依姫神は、神武天皇の先祖であって数十万年生きたとされる神々です。日本神話がそもそも天皇家の支配正当化につながる(というもっぱらの噂の)神話である点からすれば、まさに毛並みと実力を兼ね備えたサラブレッドです。また、依姫が戦闘で降ろした祇園様(素戔嗚尊)、愛宕様(迦具土神)、金山彦神石凝姥命天津甕星天照大御神天宇受売命伊豆能売は、一般に、日本神話で上位神とされる天津神に分類されます。*5 同様に月夜見様(ツクヨミ神)や、八意××(永琳)にゆかりのある八意思兼神天津神です。

 

□高貴なる月の都

 月の都も地上とは比較にならないほどの高貴な由来を持ちます。月の都で謀反を企む者がいるとの不穏な噂が流れた原因の一つとして、誰かが月の都に住む神々を降ろして使役したという点が挙げられていました。*6 この使役された神々に天津神である住吉三神が含まれることから、月の都は天津神の住む場所といえます。過去の神主インタビューにもそれを裏付ける発言があります。*7 日本神話にこれに対応する場所を求めるなら高天原です。また、生えているのが桃の木ばかりということをとれば道教の理想郷としての桃源郷のイメージも重なります。さらに第三話章題「浄土の竜宮城」にもあるように、仏教の極楽浄土でもあれば、神仙の理想郷ともされる龍宮でもあります。

 問題は、これほどまでに絶対的な謂われと実力を設定した意図です。

 

 

C. 地上の民の戦い方

□昔の人の戦い方

 地上の民は全体として月の民に力で負け、知恵で勝つ結果となりました。そのことを象徴的に表しているのが、巻頭言にある「考える葦」という言葉です。*8 人間は弱い存在だが、考えるゆえに偉大であるという意味のよく知られた言葉です。

 儚月抄で地上の民の弱さを表した言葉といえば、紫の「地上の民は月の民に決して敵わない」発言です。*9 考える葦という表現をたどると、その真意がどのような文脈にあったのかが伺えます。昔の人の次のような言葉です。

 “思考に人間の偉大さがある。人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。しかし宇宙がこれをおしつぶすとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも、崇高であろう。なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから我々のあらゆる尊厳は考えるということにある。我々が立ち上がらなければならないのはそこからであって、我々の満たすことのできない空間や時間からではない。…私は私の尊厳を空間によってではなく、私の思惟の規則によって求むべきである。私は領土のかずかずを所有したとしても、ただそれだけのことであろう。空間によって宇宙は私を一点であるかのように包み込む、思惟によって私は宇宙を包容する。”*10

 上記の文章後半は、先の発言と符合します。葦は弱く風雨でぺこる植物として、聖書以来、西洋世界で弱い存在としての人間の比喩に用いられてきた植物です。そのように弱い存在であるにもかかわらず、相手の力の優越を知っている点で、宇宙との上下が逆転する可能性を持っています。それを起点として、空間と時間の大きさで負けるはずの勝負を、思考の大きさで勝つ勝負にすり替えていくわけです。

 

□葦が考える葦になる必然性

 この符合が偶然であるにせよ意図的であるにせよ、紫発言も同じ論理で理解することができます。実力では決して敵わないことを知っている、それゆえに考えることで挑み、相手を包みこむ。そこではじめて儚い存在の偉大さが発揮されます。

 昔の人のいう宇宙は広大で絶対的な存在の比喩ですが、日本神話で上位の神々である天津神も、地上の民にとっては同様の絶対的存在です。ストーリーの道具立てとしてみると、月の民の側に強力な謂われと絶対的実力があり、かつ地上の民の側に月の民に敵わないことを知る者がいることによって、考える葦の実力を引き出す必然性が生じます。ここで必然性というのは、東方文花帖Shoot the Bulletのあとがきに語られているような、他の部分とつながらない「不自然な形でのシステム構築」でないことです。*11

 なお、考える葦の戦いをあてはめる見方の最大の難点は、月の民が地上の民と同様の人格的存在として表現されていることにあります。たとえば、宇宙と異なり依姫・豊姫・永琳は考える存在であり、おそらく自らの力の優位も知っています。そこで、昔の人の原典にある考えるか考えないかの比較の代わりに、知恵比べという比較をしていると捉えることになります。

 

□その他の葦について

 ところで、考えることから生まれる選択肢は一つではありません。ロケット打ち上げ後のパチュリーと永琳・輝夜の対話で、“「大丈夫よ レミィは躍らされているだけなことぐらいわかっているから」(中略)「じゃあ 貴方が地上に残った理由って……黒幕を懲らしめるため?」”という問いへの答えは、「うんにゃ 痛い目に遭うのが嫌だから」です(S第十一話、p97)。月の民に実力では決して敵わないことを知っている、それゆえに戦いを回避する。これも別の形の賢明な判断でした。

 地上の兎である因幡てゐにも、『東方儚月抄~月のイナバと地上の因幡』26話で同様の現象が起きています。月出身の兎レイセン及び鈴仙が依姫と戦闘訓練をしてぼろ負けしているのに対して、依姫はてゐの落し穴にたまたまかかって目を回しました。このネタの原案がZUN氏によるものとすれば、てゐが幸運の素兎であることを差し引いても、これも地上の民=考える葦 の勝ち方の変化形といえます。

 このように本来人間を指す考える葦という語を妖怪にもあてはめられるのは、月の民と対比された地上の民が、基本的に地上に住む存在一般の比喩となっているためです。

 では、考える役まわりはパチュリーに任せきりのように見えるレミリアはどうなのでしょうか。ロケット組としてのレミリアは、他の人間三人とは異なる特異な存在として描写されています。それは月到着直後のロケット組が依姫に捕縛された際の一人だけ余裕の表情とされるもの(S第十三話、中巻p147)*12 に始まり、一人だけ天照大御神により日光という弱点を突かれて一撃で倒されること(S第十六話、底巻p58)、霊夢の戦闘中に寝ている負けた後の切り替えの速さ(S第十九話、底巻p72)、投了して憮然とする霊夢魔理沙を尻目にのんきに騒ぐ様子(S第二十話、底巻p139左上コマ)、ロケット大破の月旅行を振り返っての魔理沙と違い懲りない態度 (L最終話、p184)*13 と続きます。これらすべてにおいて、普通の人間の振る舞いと対比する形で特徴が表れています。違いを言葉で表したのが小説版第五話の紫による吸血鬼評で、折れないしなやかな心として表れるものでした。

 こうして、ときに月の兎や人間の三人との対比という方法を用いつつ、儚い存在のしたたかな強さが表現されています。

 

 

D. 月の民はなぜ戦闘で圧勝したか

□神々は美しく勝つ

 地上の者が、考えることで強大な相手をも攻略する偉大さを持つこと。これを表現するのは、間違いなく作品の目的の一つでした。しかしそこからは、月の民の絶対的な力をどれだけ念入りに描写するか、という点への答えは出てきません。

 特に、考える勝利を導くことはロケット組の直接的な役割ではありません。そうすると、依姫戦において、長めの尺でじっくりと負け戦を描く必要はあったのでしょうか?

 振り返って月の民と神々の謂われや由来をみると、偶然とするにはあまりに無理があるほど強大に設定されていました。だとすれば、描写についても同じく意図的であるという考えは十分に成り立ちます。つまり、依姫の呼ぶ神々の圧倒的な力を描写することも、まさしく神々の偉大さをきちんと表現するという点で、儚月抄において必然性があったと正面から認める考え方です。

 依姫戦でスペルカード戦は美しさの戦いだ、という魔理沙の説明がありました(S第十三話、タイトルは「月面の美しさ」、中巻p153”「自分の持っている大技をすべてみせて相手にかわされるか潰されたら負け 技と体力が残っている間はさらに続けても構わない でも勝負がついたらおとなしく引き下がる」「普通の決闘と何が違うの?」「美しいほうが勝ちなんだ つまり精神的な勝負ってことだ」”)。開戦の掛け合いのキーワードも美しさです。*14 小説版でも、レイセンから豊姫へ、戦い方の美しさであって美人比べではないという予防線を張りつつ、美しさに力点をおいた説明があります。*15 言い換えると、ここで月の神々の偉大さとして表現されたのは、美しく戦い勝つことです。咲夜魔理沙レミリアのやられっぷり(弾幕のよけられっぷりを含む)も、レイセンの説明にある穢い手の典型である霊夢の穢れ攻撃(S第十七話、底巻p72)も、月の神々の美しい戦いに対比されるものとして意味を持ちます。

 依姫戦に対応する豊姫と紫のやりとりでも、神々の偉大さを表現することを意図していたとみることができます。

 豊姫は由来的には天津神であって、土下座はそれ自体として地上の妖怪が高貴な神々にひれ伏す局面です。この勝負で豊姫が美しく勝つためには、実際に大量破壊兵器の扇子を使うわけにはいきません。そうなると、相手を含めた構図で表現すべく、紫の土下座演出を対比することになります。こうして地上の民の描写は月の民の美しい戦い方に対比されるものという視点に立つと、首筋をとられるチェックメイトの瞬間が霊夢と紫で同時になっているように(S第十八話、底巻p95,96)、土下座は霊夢の穢れ攻撃と対となる表現であって、ともに戦い方として美しくない点に意味があるといえます(底巻p100)。

 またフェムトファイバーの長い説明は何だったのでしょうか。本隊と思われた相手を降伏させ、浮かれた豊姫が饒舌になりすぎたのでしょうか。多分それもありますが、神々の偉大さの表現という観点から考えると、天津神の優れた力(技術力)の自慢といえます。会話をしている豊姫に天津神を表す者としての自覚があり、紫もそれをわかっているからこそ、国津神(土着の神々、月の民の動きに逆らう者)の封印に用いてきた話にそのまま続いています(S第十九話、底巻p107)。こうして天津神を持ち上げつつも、国津神を貶める価値観を描くことが目的ではないため、さらにその直後に国津神への地上の信仰=てゐによるダイコク様の持ち上げが入ります。儚月抄の世界観のバランス感が垣間見えるところです。

 ついでに、妖怪退治には謂われを持った武器が有効だという先に引用した前提も加えると、フェムトファイバーは当事者にとっては実際上の重要性も持ちます。精神的な存在である妖怪にとってみれば、物理的にほどけない紐であること以上に、組紐の素材の謂われにこそ拘束されるといえるためです。

 色々な賛否はあれど、こうして神々の偉大さと美しい勝利を表現することも、おそらく東方的世界観の一部なのです(項目Ⅲに関連)。

 

□世界観の天秤

 こうして、儚月抄に示されたのは儚い地上の者達と絶対的存在をともに讃える世界観ではないか、という結論が見えてきます(視点1)。儚い地上の者達と神々を天秤にかけたとき、儚月抄の世界観にとってはどちらも重いものなので、ともに活躍の機会を与え、両方に華を持たせたという説明です。そのためには、強さの軸を2つ用意することが最も確実な方法です。

 ここで、当事者達の感覚でみて両方のメンツが一応保たれている、という説明を付け足すこともできます。魔理沙と依姫のスペルカード戦交渉合意時の発言(S第十三話、中巻p155)を取り出すと、”「で うちらが全敗したら…おとなしく地上に帰るから」「ふーん それで無駄な血が流れないのであるのならいいかもしれない」「もし私が敗れるようなことがあっても 月の都には入れさせないけど……」「ま そのときは手土産一つでもあればいいや」”です。依姫が勝てばロケット組はおとなしく地上に帰るという、月の民側の目的は達成されました。一方で地上の民も、直接戦闘では二組とも負けたものの、住民税の酒を徴収し、結果的にロケット組魔理沙の言う、スペルカード戦で勝ったら「手土産一つでもあればいいや」を達成しました。こうして双方の目的が達成された形になっており、顔を立てた形になっていることがわかります。

 

□汎用能力による反撃

 ここで決め手となった能力をみておくと、儚月抄は、空を飛ぶ程度の能力や魔法を使う程度の能力が属する非日常能力は、神々の側に勝たせました。対して、地上の民には、しなやかな心と考える程度の能力という、非日常でないものを持ち味としています。これは儚月抄の特殊性の一つといえます。

 以下はまったくの推測になりますが、メタ的な視点で見れば、考える能力で勝つのは儚月抄の企画自体のもたらしたものともいえます。もともと小説・コミック・4コマ並行というメディアミックスに加えて、キャラクターの視点により言っていることが異なり、併せて読んではじめて全体像を理解できる複雑な試みでした。複数の媒体を組み合わせてキャラクターの意図を明かしていく構成は、筋書きとしても、トリックによる逆転になじむものです。

 別の表現をすれば、読者もまた、柔軟性を持って考えることを迫られる立場にありました。したがって、考えるという汎用能力による勝利は、意図を見抜いた読者の勝利とのオーバーラップが目指されていたようにも思えます。

 他方で、受け止められ方は読者の側の事情にも大きく左右されます。小説版あとがきは「ロマンを感じながら生きるという事は難しいのでしょうか?」と疑問を投げかけた上で、人は異質なものにこそロマンを抱くという見方を示し、幻想小説の読者に言及します。幻想郷の出来事にロマンを感じるのは外の人間である、逆に幻想の住人がロマンを感じるのは外の世界の日常に対してであるというものです。

 同じ論法でいえば、もし考える葦の戦いにロマンを感じないとすれば、その人がすでに充分、考える葦だからです。それもまた一つの悪くない結末です。

 

*1:S第一話の以下の流れより。”「ついに宇宙人が動き始めた 予定より遅かったけど誤差の範囲だわ」(中略)「漏れないようにしたから動き始めたのよ 少しずつ異変を感じ取ったのでしょう 宇宙人が動き始めないと私たちも動けない」”

*2:L第一話、p21 “外の世界では、月面着陸は大成功の様に報道されているが、惨敗だった時は報道されていない。最初の月面到達以来、人間は負け続きだったのでそれ以降月面には行っていない事になっている。本当は、何度も月に行っては月面基地開発に失敗している事を、月と通じている私達は知っていた。”

*3:なお、ここでいうロマンは、登場人物である幻想郷の住人が抱く宇宙への思いとは区別する必要があります。幻想郷の住人の動機については、おもしろそう、羨ましいといったロマンそのものでない理由付けが中心となっています。また、紫や豊姫のように目的地に一瞬で到達する方法と、有人宇宙旅行、特にみすぼらしいロケットで苦労しながら宇宙を目指すこと(L第五話での言われ方)も区別する必要があります。妖怪宇宙旅行の曲説明も、ロマンの対象として後者を指しています。

*4:永琳による三神式月ロケットの命名の重要性の指摘や、『東方求聞史記』p32で、妖怪退治では『謂われ』のある武器が望ましいとするものなど。

*5:http://www.wdic.org/w/CUL/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E7%A5%9Eなど参照。天津甕星など一部は異説あり

*6:L第六話、p125“何故、その様な噂が流れ出したのであろう。後から依姫様に聞いたところ、何処かに月に住む神々を正式な手順を踏まず呼び出す者が居るからだという。(中略)地上と月を結ぶ箱船に住吉三神を呼び出す。どうやらそれが月の都で流れた不穏な噂の元だったのだろう。” / L最終話、p161“そして、月に住む神々達が何者かに喚ばれ、使役されているとの事。これが出来るのは依姫くらいである。”

*7:東方求聞口授』、p182 ”僕の中では月の都は高貴な神様たちが居る場所、という設定なんです。で、反対に幻想郷には親しみやすいというか土着っぽい神様たちが居る。神様にもいろいろ派閥があるんだろうなって。で、永琳はその中の一人だったから、幻想郷に来ても他の人間と接触を持たないんです。(中略)というわけで、本当に綿月姉妹は幻想郷側からはアンタッチャブルなんです。必要な措置として。”

*8:巻頭言は単行本化の時点で追加されたものですが、考えるという要素は連載時から作中に頻繁に登場しており、ベースの価値観としては構想時から固まっていたものとみられます。付け加えると、月の都が天津神の都であるならば、土着の国津神がいる地上は葦原中国(あしはらのなかつくに、神話における日本の呼び名)です。葦とは少なからぬ縁があります。

*9:S第一七話で、留守の家を漁るだけでよいのですかと言われて“「どうせ地上の者は月の民には敵わないもの 力では」”(笑顔で) / L第五話で、紫が藍に重要なことを教えるといって伝えたのは“「地上の民は月の民には決して敵わないのよ、特に月の都では」”

*10:ブレーズ・パスカル『パンセ(冥想録)上巻』p219、新潮文庫、1952

*11:文花帖については、弾幕は撮影して切り取ることでパッケージ化が完成すると紅魔郷時点で考えていたが、撮影の必然性がないために断念した、そこで「まず、撮影する必然性のあるキャラと世界をゲームに登場させ、そのキャラを主人公に持ってこよう」と考えて射命丸文から作られたとされます。(文花帖おまけtxt「2.おまけのあとがき ゲームを考えて創る事のススメ」を参照)

*12:三人を対比するコマでの魔理沙発言「吸血鬼は余裕の表情だが 何を考えるかわからんし」

*13:“「あれは、住吉三神を使ったからだめだったんだよね。行く間に二神切り離しちゃってさ。六神くらい居なきゃ帰り分の神様が足りなかった」レミリアが人差し指を上に向けてくるくる回した。どうやら六段分のロケットを表現したらしい。”

*14:S第十三話、中巻p159 咲夜と依姫”「さあ 私の美しいナイフ捌き 残念ながら誰にも見えないかもしれないけど」「そう それでは 私も月の使者のリーダーとして 最大限美しく…」”

*15:L第六話、p152“「美しく相手を制した方が勝ちだそうですよ」「へ?美しく?」豊姫様は何を想像したのか吹き出した。「どうかなされました?」「美しくって誰が判定するの?というか人間が思う美しさって何?美人コンテンストでもやってるのかしら、面白そうだわ」「い、いや、言い方悪かったですかね。美しさというか穢い手を使わないで戦うというか」「ふふふ、判るわ。人間も月の民みたいな事を言うようになったのね……それも誰かの入れ知恵なのかな」「それも……ですか?」”

Ⅱ-ⅰ.地上の民と穢れの少ない草原 : 生物の進化と文明の歴史vs.穢れの概念

A. 死を内包する理想と死を忌避する理想の折衷 ― 吞んべぇのレムリア(retro ver.)*1

 

視点2:死を内包する地上の生命観・歴史観と、死を忌避する月の死生観を折衷する

要約:儚月抄の世界観にとっては、多様な生物の間の生存競争がもたらした生命の歴史・文明の栄枯盛衰も、神道由来の穢れの概念(=生きることが死を招くことや、生きるために競争しなければならないことを穢れととらえる価値観)も、どちらも重いものなので、片方の理想を放棄することはない。だとすれば、自然の摂理にも死の忌避にも反しない社会、たとえば弱肉強食の形式は維持しつつ人妖が共存する社会、が理想郷となる。

 

歴史観と死生観の抵触

 寿命のない月の民は生きることと死ぬことを穢れとみて、地上の民を穢れた存在とみなします。たしかに、人間をはじめ地上の存在は、いつか死ぬ運命から逃れることができません。

 それならば、人の世界、地上にとっての理想は、穢れた物の存在を決して認めない月の都のあり方に近づくように*2  、穢れを生む原因(競争や戦争など)を少しでも遠ざけていくことでしょうか? この立場も、不死の追求から平和主義まで、古今東西みられる一つの解決です。

 しかし、それだけでは済まない事情があります。月の民は競争の二面性を認識しており、地上の人間の歴史と成長は、全て戦争の歴史と成長であり*3 生命の歴史は戦いの歴史だ *4 と回想します。月の民のように死を忌避する考え方を徹底すると、これらの歴史も蔑視することになるはずです。

 生物や文明の多様性の中での競争を否定すれば、地上は文明も様々な生物も発達しない、ただの草原が理想となってしまいます(L巻頭言)。それを示すように、穢れに満ちた地球の海は生命発祥の地でもありましたが、穢れのない月の海は生物の棲めない海でした。*5

 ここで鼎の軽重を問われているのは二つの考え方です。一つは、自然淘汰と種の変化が地上の生命の歴史であるとする、進化論や自然選択説的な認識です。もう一つは、巻頭言に含まれる皮肉の裏返しとしての、穢れゆえに多様性のある生命豊かな地上があるという見方です。こちらを基礎づけるのは群集生態学的な観点であり、競争関係をはじめとする生物の相互関係が多様な生態系を生み、活性化させるというものです。

 

□価値観の均衡点

 生物の多様性がもたらす功罪両面を直視したとき、問題はここに生じるジレンマをどう解決するかです。作中の表現で言い換えると、争い事がなければ何も成長しない、生物の歴史は競争と自然淘汰の積み重ねだという視点を持ったとき、その他方で、穢れの感覚=生が死を招くことを忌む感覚 をどうしたらよいのか。こうして生存競争や文明抗争の必要性を肯定する歴史観に、神道由来の宗教的観点を足してみると、両者のいいとこどりができたら理想じゃないか、という発想が生まれます。

 幻想郷は、それを多かれ少なかれ、弱肉強食関係(捕食-被食関係)にあるはずの人妖の共存相利共生)という形で実現しました。幻想郷という地上に接した月の民と月の兎は、人間と妖怪が協力している様*6 、妖怪と人間が対等に暮らし、古い物も新しい物も入り交じった世界であること*7 、地上では妖怪と人間は共存しているのではないかという印象を挙げ*8 、そのことを感じ取ります。

 

 幻想郷に接した月の者が、人妖の共存という点で地上への評価を肯定的に変えたということは、 “考える葦が考えることを止めたのならば、地上は確かに穢れの少ない草原になるだろう。月の民はそれを願うのか。”という問いの答えが出たともいえます。生きることは競争を伴い生存競争は弱肉強食の死を招くという、穢れをもたらす因果連鎖について、月の民は生きることと競争からして否定します。それに対して、幻想郷は捕食関係を共生関係に転換するという異なる方法により、弱肉強食の死を回避しています。それなら意外と地上っていいじゃん、というのが彼らの示した理解でした。*9

 

□理想郷はどこに

 ここで付け加えると、月の民の理想=幻想郷 というわけではありません。月の民の理想もただの草原ではないものの、“生も死も無い世界が限りなく美しい。だが何も無い世界が理想というのとも違う。生きる為に他人から搾取したりせず、自分達が生み出した物だけで全ての者の生活が賄える世界が理想なのだと言う。”(L第六話、p130)という依姫からレイセンへの教えにあるように、生も死も無い世界で、自己完結した自給自足を営むこととされています。これは桃源郷のイメージに通じる、変化のないことに価値をおく世界ならではの理想です。小説版における輝夜霊夢への言葉にも変化のない暮らしが理想として語られています。*10 

 儚月抄における幻想郷は、月の純粋な理想よりは現世的な志向を持つものと位置づけられているようです。その表れとして、霊夢は先の輝夜の言葉を「もっと豪華で派手な暮らしを望むと思う」と退けます(L最終話、p183)。幻想郷の形成に参加した地上の妖怪も“衰退か極楽浄土か。どちらにしても私は嫌である。私には都会の喧噪が必要なのだ。そう思うと、この静かな月の何処かで吸血鬼達が騒いでいると思うと何だか懐かしく思えた。”と述べています(L第五話、p116)。

 衰退や浄土でなく都会を求めるにしても、外の現代社会と区別すべくひと工夫必要です。宗教的死生観といった伝統的価値観は精神的な奥深さの一つの具体例ですが、現代社会はむしろ唯物文明的に、科学や技術を手段として物質的な豊かさを満たす方向に発展している面があるからです*11。そこで独自の立ち位置を得るのが、近代的価値観の要請する競争やバランスを保ちつつ、伝統的価値観と折衷した場所としての幻想郷です。月面戦争で酒を盗みだしたのがなぜかを思えば、一つの理由は、月の都が物質的な豊かさより精神的な豊かさを重視することによるのでしょう。ここでは、酒もまた精神的な豊かさの具体例です。それゆえに、幻想郷=地上+精神的豊かさ=呑んべぇのレムリアといえます。

 

 ちょっと昔の人が、こんなことを言っています。由来としてではありませんが、視点2にちょうどよく当てはまると思えるため、引用します。

“『悲しき熱帯』を書きながら、人類を脅かす二つの(わざわい)──自らの根源を忘れてしまうこと、自らの増殖で破滅すること──を前にしての不安を表明してから、やがて半世紀になろうとしています。おそらくすべての国のなかで日本だけが、過去への忠実と、科学と技術がもたらした変革のはざまで、これまである種の均衡を見出すのに成功してきました。このことは多分何よりも、日本が近代に入ったのは「復古」によってであり、例えばフランスのように「革命」によってではなかったという事実に、負っているのでしょう。そのため伝統的諸価値は破壊を免れたのです。しかしそれは同時に、日本の人々、開かれた精神を長いあいだ保ってきた、それでいて西洋流の批判の精神と組織の精神には染まらなかった日本の人々に、負っています。この二つの精神に自己撞着した過剰が、西洋文明を蝕んできたのですから。” (クロード・レヴィ=ストロース『月の裏側―日本文化への視角―』[知られざる東京]p128、中央公論新社、2014。初出は『悲しき熱帯Ⅰ』中公クラシックス版序文、2000)

*1:レムリアとは、5000万年以上前のインド洋に位置して、現在のインドの南部、マダガスカル島マレー半島が合わさった仮想の大陸です。人類発祥の地と考えられていました。

*2:L第三話、p54、豊姫 ”月の都は完成された高度な都市であった。物質的、技術的な豊かさはとうの昔に満たされており、精神的な豊かさを高めることが最も重要であるとされていた。(中略)ただ、それを実現する為に必要な事は、穢れた物の存在を決して認めないことだった。”

*3: L第二話、p39、輝夜 “だが、地上に存在するものは必ず壊れる。盛者必衰、力あるものもいずれ必ず衰え滅びる。その時、この優曇華の玉の枝は奪い合いの対象となるのだ。そして地上の世の平和は乱れ、戦乱の世へと変化する。つまり優曇華は、月の民が地上に争乱をもたらす為にも利用されている植物である。何故争乱をもたらす必要があったのかは、人間の歴史を見れば容易に判る。人間の歴史と成長は、全て戦争の歴史と成長なのだから。争い事がなければ何も成長しない。現状に満足した時点で人間は生きるのを諦めてしまうだろう。月の民は地上の民の事を思って、日々暮らしているのだ。地上の民の歴史は月の民が作っていた事に他ならない。” (注*―この引用部分は地上の世界観一般について述べています。幻想郷の世界観としては、伝統的価値観との折衷を経るため、最終的に単純な発達史観ないし社会進化論をそのままとるわけではありません。)

*4:L第三話、p56、豊姫 “私は海を見ると昔を想像してしまう。海で生まれた生命は、生き残りを賭けた長い戦いの末に海は穢れ、そして勝者だけが穢れ無き地上に進出した。陸上ではさらに壮絶な生き残りを賭けた戦いが繰り広げられた。ある者は肉体を強化し弱者を食料にした。またある者は数を増やし食べられながらも子孫を残した。陸上を離れ空に穢れの無い世界を求める者も居た。敵う者は殆ど居なくなったが順応性を失い絶滅した者も居た。地上を諦め再び海に戻る者も居た。勝者はほんの僅かであり、数多くの者は戦いに敗れ絶滅した。生命の歴史は戦いの歴史である。常に勝者を中心に歴史は進む。そんな血塗られた世界だから地上は穢れる一方だった。生き物は本来いつまでも生きる事が出来るのだが、穢れが生き物に寿命を与えた。生命の寿命は短くなる一方だった。”

*5:L第三話、p52、豊姫 “地上の生命は海から生まれたという。気が遠くなる程の長い時間、生き残りを賭けた生命戦争が繰り広げられた。他を圧倒する為に体を大きくする生物、酸素を利用して素早く動く生物、新天地を求め地上へと進出する生物、地上から空を目指す生物……様々な形の勝者が現れ始めた。海は生命の源であり最大の戦場でもあったのだ。そんな歴戦の勝者である海の生物に穢れが無い筈も無い。だが月の都には穢れのある者は殆どいない。だから目の前の海には何の生物も棲んではいないのだ。如何なる海の生物も月に移り住む事は適わなかったのである。そう、この海は何一つ穢れていない、ただ一点だけ、水面に映っている青い星の場所を除いて——。” 

*6:L第二話、p30、輝夜 “あの二、三年ほど前の地上の民による襲撃事件があってから、私は永遠亭に永遠の魔法をかけるのを止めた。何故なら、人間と妖怪が協力している様を見て、酷く羨ましく思ったのだ。永遠に月の都からの使者に怯えて暮らす自分が馬鹿馬鹿しく感じた。永遠の魔法とは、一切の歴史の進行を止め、穢れを知らずに変化を拒む魔法である。生き物は成長を止め、食べ物はいつまでも腐らず、割れ物を落としても割れることはない。覆水も盆に返る。私は月の民である自覚から地上の穢れを恐れ、この魔法を建物全体にかけていたのだが、地上の民の魅力を目の当たりにし、自らその魔法を解いたのだ。”

*7:L第二話、p34 輝夜 “ここ幻想郷はとても不思議な土地であった。妖怪と人間が対等に暮らし、古い物も新しい物も入り交じった世界。そこに月の民と月の都の最新技術が混じったところで、誰も驚かないのだろう。自らを高貴な者だと言っても笑われるだけである。何とも幻想郷は居心地の良い土地だった。何故なら、わざわざ隠れ住まなくても目立つ事がないのだから。”

*8:L第六話、p130、レイセン “最初に介抱してくれた巫女は、私の事を妖怪兎だと呼んでいた。妖怪とは人間を捕食する怪異の産物だと聞いている。それなのに地上の人間は妖怪でも介抱してくれるものなのかと感心した。穢れの多い地上の生き物なのだから、自分の命を脅かす妖怪が弱った姿で現れたら、その場で始末するものだと思っていた。その後、月の羽衣を奪われそうになったが……。それどころかその巫女は別の妖怪と行動を共にし、月に攻め込んできた。もしかしたら、月の都に伝わる地上と現状の地上では、何か大きな差異があるのではないか。地上では妖怪と人間は共存しているのではないか、そんな気がした。しかも、月に攻めてきた吸血鬼部隊。一見リーダーは吸血鬼なのだが、見た感じあの部隊を操っているのは巫女である。つまり人間が神を呼び出し、妖怪を支配していると考えられる。月の都が考えている地上のパワーバランスの地図を書き換える必要があるのかも知れない。”

*9:理解を示したのは、あくまで生存競争のもたらす弱肉強食の死(穢れの中核をなすもの)を回避する工夫についてであることに注意する必要があります。依然として地上の民は、寿命を背負い、いつか死ぬ定めの存在です。つまり、視点2で問題にした死と視点3で問題にする死は別物です。L最終話の輝夜の「生死が日常の幻想郷」というフレーズは一見紛らわしいものですが、文脈をみると後者の問題であることがわかります。

*10:L最終話、p183、輝夜 “「気温は一定で腐ることのない木の家に住み、自然に恵まれ、一定の仕事をして静かに将棋を指す……、遠い未来、もし人間の技術が進歩したらそういう生活を望むんじゃなくて?」”

*11:設定が生きていれば妖々夢マニュアル「幻想郷風土記」など。ほかに、S第三話・上巻p58 “レミリア「それって何? 山の天狗や河童には負けたくないってこと? 馬鹿みたい」” このくだりの発言は、外の世界や天狗の社会に張り合うことを評価せず、妖怪の生活の独自性を重視する立場を示しています。他方で、自身がしなやかな強さのような普遍的価値を提示していることは先にみました。文化人類学の文脈でいえば、文化相対主義+野生の思考に似たものがあります(その意味はまた後で出てきたり出てこなかったり。)

Ⅱ-ⅱ .地上の民と穢れの少ない草原 : 死ぬべき定めの儚い存在vs.いつか死ぬこと

B. 死の不平等と生きること

視点3:生きることを死なないことに勝たせる

要約:仮に理想郷を構想するとしても、地上の民が「いつか死ぬこと」から逃れられるわけではない。それでも、地上の民の生が不死の存在に及ばないわけではない。儚い存在の活路は、「死なないこと」の追求よりも、寿命の長さの問題ではない点で「生きること」を意味づけることにある。

 

□七難八苦

 依姫から教わった本当の穢れとは何かについて、レイセンは「月の都が嫌った穢れとは、生きる事と死ぬ事。特に生きる事が死を招く世界が穢れた世界なのだ」と述べます(L第六話、p130)。ここにいう穢れは、その言い方と、死をとりわけ忌避する点で神道の穢れ概念に根ざすものといえます。神道にいう穢れとは、概ね以下のようにまとめられるものです。

 “神道で言う穢れというのは、大まかに言うと死や血・悪い行いなどを指します。現代社会では希薄になりつつありますが、女性の出産・月経なども穢れとされてきました。穢れは気枯れとも書き、それそのものの不浄を指すのではなく、それによって、気が枯れている状態という考えが一般的です。” 日本神社―神社用語辞典、http://www.jinja.in/column/k/121599

 

 またL第三話、第六話では、生も死もない月の都は浄土と言われ、生きるために競争しなければならない地上は穢れた土地、穢土と呼ばれます。浄土とは、人間の往生の目的地となるような清浄で清涼な世界を指す仏教用語であり、穢土とは煩悩に満ちて苦の多い現世を指す言葉です。仏教では、人間の問題状況として生・老・病・死の4つを苦(思うようにならないこと)と捉え、そこから大乗仏教小乗仏教など、宗派ごとに解決策が分岐していきます。生きる事と死ぬ事双方を穢れと捉えること(L第六話)、地上に住む・生きる・死ぬ、それ自体が罪であり、地上に這い蹲って生き・死ぬことが最大の罰である、とする豊姫の言葉(S第十八話、底巻p100)は、生も死も苦と捉える四苦の考え方に通じるものです。

 

 地上には穢れが満ちており、生と死は罪であり罰であるという儚月抄の地上観には、二つの宗教観の考える人間の苦難が合わさっています。死ぬべき地上の者は、死を重ねて否定するこの価値観を、宗教的解決策の提示なくして不死者から突きつけられます。神も仏も敵に回したような絶望的な状況に対して、いつか死ぬべき者は、不死者に何も言い返せないのでしょうか。

 

 一つの方法は、死を忌む穢れの概念自体の否定です。たとえば、生きることは死を招くものの、死をもって新たな始まりと考えるといった、別の見方で上書きすることです。たとえば、死を忌むべき存在と考える神道的な死生観と異なり、生と死を連続的にみて、死後の世界や輪廻転生という観点を許容するのが仏教的な死生観です。

 しかし、儚月抄の設定では浄土は月の民の都であって、地上の民のものではありません。地上の民は、死後の世界・極楽浄土への往生という宗教的救済によって死の否定的評価を覆すことはできません。(その意味で、以下でしようとしている話はいわゆる宗教的解決ではありません。穢れを否定しないことについて、伝統的価値観の尊重という面があるのは視点2で述べた通りです。穢れが“神主”として神道的概念に由来するものならば無視できない、という側面があったとしてもです。)穢れを背負って退路を断たれて、果てしなく低い地上からどう反論するかが問題です。

 

□究極の開き直り

 別の方法は、たとえ生きることが苦であり穢れを背負っているとしても、死なないことに勝る、と言い切ることです。小説版では、地上の者にとって重要なことは不老不死ではなく生きることの意味づけだ、という視点が各所に現れます。

 水江浦嶋子のエピソードでは、不老の価値が反転します。通常のおとぎ話の浦島太郎では、玉手箱を開けて老いたことを、戒めを破ったことによる不幸と捉えて終わります。ところが、儚月抄では老いること自体の年の功という側面を足がかりとして、老いた先に筒川大明神として祀られるという展開をとりました。*1 その結末に対する豊姫の言葉は「神様となり、その上に未だに名前が残っているのであれば彼も幸せでしょう。」という肯定的な解釈、つまり月の民も認める幸福です。

 藤原妹紅のエピソードでは、不死の価値が反転します。妹紅は永遠の命を得てしまったことを悔やみます。不死によって得たものは、自己について、生きる為の行動について、意味を喪失した退屈な日々であったからです。罪業を背負っての永遠の命であることが、苦しみをいっそう増しています。*2

 月の民にあっては、寿命が無いのは、生きても死んでもいない状態と認識されています(L第三話、p58 “月に移り住んだ生き物は寿命を捨てた。寿命が無くなるという事は、生きても死んでもいないという意味である。”)。寿命がなく「死なないこと」は「生きること」とは別物です。

 

 こうして寿命の長さが絶対的価値ではないという流れが見えてきたところで、地上の者の活路が開けます。寿命の長さに左右されない点で、「生きること」を意味づけるという方法です。[生きることの意味]を[寿命の長さ]より上位の価値だと考えることで、「生きること」は「死なないことに勝る」、と正面から反論することが可能になります。

 第二次月面戦争を儚月抄の主旋律とすれば、この視点から見えてくるものは、副旋律にあたるものです。一貫して語られ続けているのは、

知りたいことを持つこと*3

苦労を楽しもうとする余裕の心*4 、

日常のどうでもいいことの捉え方*5 、

興味*6 、

考えること*7 、

ライバルとの決闘(競争心)人間(顧客)からの感謝*8 、

そして悩むこと*9 。

つまり、地上において「生きること」を意味づけるもの、精神のありようが、寿命の長さや「死なないこと」の優位を乗り越えていくことでした。

 霊夢輝夜との会話の中で、変化なく寿命の長いことがよいことだ、という考え方に反論し、寿命が長くても心が腐っていれば意味がない、という徹底した立場を示します。*10

 生老病死が苦であり、生死が穢れであるとしても、まだ心が残されています。

 

 ここで起きていることは、新しい視点の付加による勝利条件のすり替えです。

 「いつか訪れる死」は、儚い存在が宇宙や神に続いて向き合う、第三の絶対者ともいえます。先に昔の人の次のような言葉を引用しました。“人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。…なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを知っているからである。宇宙は何も知らない。” 絶対に敵わない死という存在に対しては、不老不死の追求=死との力比べ でなく、生きることを意味づけることで逆転する=考える勝利 を目指すのが正道なのかもしれません。

 

□死なないものと生きること

 ところで、地上に降りた輝夜と永琳には何が起きているでしょうか。輝夜は“すぐに穢れはこの屋敷にも広まり、永遠亭は地上の一部になっていくだろう。この優曇華に花が咲くのも時間の問題であると思われた。私や永琳の心境に微量な変化が見られるのも、恐らく地上の穢れの影響であろう。”(L第二話、p40)と述べます。この心境の変化は生きることを意味づける者への変化であり、死なない者についた地上の埃です。永琳と輝夜に特徴的な、働くこと*11 と、やりたいことを探すこと*12 も、上に並列したものと同じ文脈で理解することができます。

 

 地上の者が不死者に対して自らをどう位置づけるかは、輝夜、永琳、妹紅ら地上の不死者(蓬莱人)との共存とパラレルな問題でもあります。

 人妖が共存する幻想郷においてなお、蓬莱人以外の地上の人妖=いつか死ぬ者 であって、不死者とは、死を忌む穢れの概念を境に対置されるはずでした(地上のいつか死ぬ者 vs. [地上と月の不死者]=死なない者)。

 しかし、生きてなすこと、なしたことの意味が寿命の長さより重要だ、という図式を持ち込むことで、地上の住人=生きることを意味づける者 という再分類が可能になります。すると、両者は対等のスタンスで生きる幻想郷の住人として包容されます([地上のいつか死ぬ者と蓬莱人]=生きることを意味づける者 vs. 月の不死者=生きても死んでもいない者)。妹紅は九百年の迷いの末に生きることを意味づけるいまに至り、永琳は人間の社会に順応し始め、輝夜は地上における生を模索しています。*13 

 穢れを死を忌む感覚ではなく、原義の「気枯れ」(気力の枯れた状態)に読み替えると、生きることを意味づけることは一般的にその解消に向かうものといえます。*14 境目となっている穢れの概念を原義に読み替えると、不死者と死ぬべき存在の対立が解消する。そう考えると、いかにも東方らしい落としどころかもしれません。*15

 

 浄土と穢土、生存競争の穢れという言葉が出てきた第三話「浄土の竜宮城」(2007年12月)とほぼ時を同じくして世に出た作品に、『幺樂団の歴史5』(2007年12月)があります。そのあとがきに、次の言葉が記されています。*16

 「これらの曲を書いてから早13年か……。率直な感想、13年なんてあっという間だ。無為に日を過ごしてはいけない。あっという間に気力と体力を奪われ、そこに残るは鉛の夢。三途の川も渡れぬ重金属の霊魂。死は誰にでも平等に訪れるだなんて誰が言ったのだろう? 少なくとも人間は生き方次第で別の生き物になる気がする。」

 死の不平等と、生きても死んでもいないような魂、人間の生き方。ここには儚月抄で取り上げられた生と死への視点そのものがあります。儚月抄が死生観において行った試みは、死の不平等を仮定し生き方のちょっとした違いを生の条件として照らし出す、儚い人間のための思考実験でした。

 

 

*1:L第三話、p64 “しかし、老人となった事が幸いした。三百年前の話を知っている老人は、村では生き神様の様な扱いを受ける様になった。彼の不思議な話は神の世界の話と信じられ村では伝説となった。当時の人間には彼ほど老いるまで生きられる事は少なく、また文字も読めなかった為、話が出来る老人はもて囃されたのだ。浦嶋子が若い姿のままだったら、ただの与太話だと思われただろう。”

*2:L第四話、p78 “不死になってからもう千三百年くらい経つだろうか。不死になってから最初の三百年は人間に嫌われ、身を隠さないと自分にも周りにも迷惑を掛けるという悲しいものであった。次の三百年はこの世を恨み、妖怪だろうが何だろうが見つけ次第退治する事で薄っぺらな自己を保つ事が出来た。その次の三百年はその辺の妖怪では物足りなくなり、何事に対してもやる気を失う退屈なものであった。その次の三百年、ついに私は不死の宿敵と再会し殺し合う事に楽しみを見い出す事が出来た。” p85 “生者必滅——生きとし生ける者は必ず死ぬ、それが世の定めである。だとしたら私はあの薬を飲んだ時から生きていないのではないか。生きる為に行動する事は意味が無い事ではないか。私は何を目的に行動すればいいのか。” p90 “「——不死になってから三百年位死ぬほど後悔したよ。まあ死ねないんだけどね。何であんな事をしてしまったんだろうと」”

*3:L第七話、p142 “「いつでも知りたい事を聞く事が出来る環境は、知りたい事を減らしてしまうのよ。知りたい事を失った人生は、不幸以外の何物でもないわ。そう…長く生きていると特にね」言うまでもないが、幽々子様はとうの昔に亡くなって、亡霊として冥界に留まっているのである。しかし、幽々子様は『生きている』という表現を多用する。”(*注―ここで、「生きている」という言葉のニュアンスが形式的な生死を超えて、何か実質的な意味をもったものに変化していることに注意する必要があります。たとえば、地上の民として在ること、何かの意味を有する生きること、といった内容です。)

*4:L第五話、p110 “見窄らしいロケットで、惨めな思いをして旅するから楽しいのだと。最短の方法で楽して手に入れた物にはなんの価値も無いと。苦労を楽しもうとする余裕の心である。人間も妖怪も長く生きているとその心は失われていく物である。だが吸血鬼達にはその心が強く残っている。”(*注―この点は生老病死を四苦と捉える状況設定に直接応える点で、クリティカルな返しだといえます。)

*5:S第九話、p30 ”「…リゲル ベラトリクス タビト」「……なんの話でしょうか?」「あのロケットたちに愛称が必要でしょ?」「必要……でしょうか?」「永く生きていると必要な物ばかりになって困るのよ」「はぁ 私はその逆に必要な物が減っていくと思ってましたわ」―「日常のどうでもいいことが重要になってくるの」” 

*6:S第二十話、p133 “「やはり……お子様ですね まだ500歳くらいでしたっけ?」「お嬢様は長く生きれば生きるほど興味が湧くようになると仰ってましたが」「だから もっと長く生きた妖怪は新聞記者になるのです」”(*注―咲夜と文の皮肉の応酬でわかりにくくなっていますが、文に応酬する咲夜発言は、長く生きていて興味が低い存在への皮肉です。それを受けて、射命丸が手のひらを返して興味の高さの価値を認め、新聞記者の自分は興味が高い存在だと暗に言っています。)

*7:L第五話、p99 “調べてと言ったが実際には自分で考えて欲しいと思っている。ただ調べるだけなら式神(コンピュータ)でも出来る。外の世界では式神に帰依して抜け殻のような人間も多くなってしまった。私は式神式神以上の仕事を与える事で毎日の退屈な生活を、ちょっとでも改善しようとしているのだ。”(*注―「退屈」な生活に対応する表現は、他の場面では不死の輝夜がやりたいことを探し始める前、妹紅が輝夜との決闘に生きる意味を見いだす前と、月の兎レイセンの餅つき兎としての生活について使われており、「死なないこと」と同様、寿命が長いだけでは意味が薄いという文脈を示します。)

*8:L第四話、p78 ”その次の三百年、ついに私は不死の宿敵と再会し殺し合う事に楽しみを見い出す事が出来た。そして今、私の存在も人間の社会に適応しつつある。今は永く生きてきた知識と長く闘ってきた力を使い、人間の護衛を行っているのだ。竹林に迷い込んだ人間――それは外の世界から迷い込む人間も含めてである、を竹林に棲む妖怪の手から守る仕事を行っている。昔は決して有り得なかった人間からの感謝が、今の私の生きる支えである。不死を恐れない人間のいる幻想郷はまさに楽園の様であった。”…p90 "そうだ、不老不死の私が退屈しないで生きていられるのは、宿敵(あいつ)がいるからじゃないか!不老不死の恐怖は永遠の孤独。罪の意識にさいなまれる永い現実。それを共感出来るのは、同じ境遇(不死)である宿敵だけだ。 私が不安に思っている事、それは『宿敵が永遠に居なくなってしまう』事だ。”

*9:L最終話、p185 “紫はにやりと笑った。その笑顔は永琳の心の奥深くに刻まれ、忘れる事の出来ない不気味さをもたらした。死ぬ事のない者へ与える、生きる事を意味する悩み。正体の判らない者への恐怖。”

*10:L最終話、p183 “「もっと豪華で派手な暮らしを望むと思う」「その考えは人間が死ぬうちだけね。これから寿命は確実に延びるわ。その時はどう考えるのでしょう?」「寿命を減らす技術が発達するんじゃない? 心が腐っても生き続ける事の無いように」その答えに輝夜は驚き、生死が日常の幻想郷は、穢れ無き月の都とは違う事を実感した。”

*11:L第二話、p48 “永琳は地上で医者を開業した。今や、里の医者では治せない病気を患ったら永遠亭に行けと言われる程の名医である。昔の永琳では考えられない出来事だった。地上の民は手足でしかないと考えていた人物が、今では地上の民を助ける手足でもあるのだから。” 

*12:L第二話、p48 “今はまだ、地上の民として自分がやるべき仕事は見つかっていないが、優曇華の花が咲く頃には何かを始めている筈である。むしろ、何かやりたい事を見つけた時に花が咲くのかも知れないと思った。”

*13:妹紅に似て、父王の復讐を果たそうとする「ハムレット」(シェイクスピア作戯曲の主人公)は “To be, or not to be: that is the question.“という有名なフレーズを述べて自問しました。この表現の前段は「生きるべきか死ぬべきか」とも「復讐すべきか、すべきでないか」とも訳されます。地上の民にとって、生きることと生き方を選ぶことはかくも表裏一体です。

*14:仏教的死生観を反映した花映塚のあとがきでは、容易に達成できない大きな目標から小さな目標への連鎖が過ちを防ぐという文脈で、大きな目標の例として「死後の生活を良い物とする」ことが語られています。「今をよくしようとすること」は小さな目標の例です。この項目で述べている結論は、理念から意味づけるという花映塚におけるこの思考方法と矛盾しません。

*15:原義から離れてトラブルが生じた逆のケースとして、茨歌仙第二十話「間違いだらけの酉の市」など

*16:もちろんシリアスばかりでなく、同時期に黄昏酒場~Uwabami Breakers~でおでんやオニオンフライを飛ばしていることも忘れてはいけない一面です。

Ⅱ-ⅲ .地上の民と穢れの少ない草原 : 個の視点vs.社会の視点

C. 平衡状態を保つ方法

視点2と視点3の接続:個の視点vs.社会の視点

要約:理想郷が生物多様性のバランスを活かすためには、人妖はそれぞれの役割を果たす必要がある。この点で、社会に参加することは互いに義務を果たすことで環境をつくり出すことでもある。同時に本分を全うすることは、個人の「生きること」を意味づける(たとえば妖怪が存在意義を保つ)一つの方法となる。

 

□逃げられないもの

 Lunatic Runagateをそのまま訳すと月の逃亡者という意味合いになります。前項は「死なないこと」がある意味で背理法の起点でした。次のキーワードは「逃げること」です。

 儚月抄で新しく設定された逃亡者が、月の兎レイセンです。永琳の書いた封書とレイセンの書いた封書は賢者の封書と愚者の封書として対比されており、レイセンが自らを愚かと振り返る理由は、本人の回想で示されています。*1 そこで出てくるのは、環境のせいにして逃げ出し、後になって逃げ出した環境のよさを思い、重ねて懐かしむ心情です。単なる後悔以上に、輝夜霊夢に一種の理想として例に出した”一定の仕事をして、静かに将棋を指す”ような暮らし(L最終話、p183)に通じることからも、餅つき兎としての暮らしは悪くなかったのかもしれません。

 同様に輝夜の心情にも、地上に来て初めてわかったこととして、月で感じていた退屈さと窮屈さは、何事も環境のせいにする自分の心が原因であったとの記述があります。*2 輝夜にとっても、月から地上に場所を変えることは退屈さの解決にならなかったわけです。

 儚月抄において、逃走すること、環境のせいにする心は見るからに肯定的に評価されていませんが、それはなぜでしょうか。

 一つの理由は、先にみた自ら生を意味づけていく精神のありように反するから、です。先立つのは自らの心であり、環境のせいにするのは霊夢風にいえば心が腐っているからです。レイセンの”そう、やれば出来るがやるチャンスが無いと思っている輩は、チャンスが来ても出来ない。チャンスを呼び寄せる力も無いのだろう。”(L第六話、p123)という感想も同じ文脈で捉えることが出来ます。

 また輝夜は働くことについて”地上の民は自分の働き以上の見返りは期待してはいけない。必ず不幸になるからである。”と思うがまだ実践できていない *3 と振り返りました。月の兎は地上の民と同様に月の民の道具的存在であることから、この価値観が月の兎にもあてはまり、レイセンにおいて表れていると見ることもできます。

 こうした人によっては五月雨式説教ともみるものは、そのまま鵜呑みにすることより、世界観全体の中に位置づけることが重要です。しかしそろそろ読むのが面倒になった人は、ここで次の項にうつることを推奨します。以下の内容については、読解を越えて若干深入りするためです。

 

□個の視点vs.社会の視点

 レイセンが逃げ出した状況には簡単ではない問題があります。何千年も進展がなく、無意味と感じられる労働です。変化のない社会といえども、心のありようとはかくも無意味な労働まで耐えなければならないものでしょうか。それは人間よりもむしろ道具になるように仕向ける思考とすら思えます。あるいは”月の都でも月の民にとっては、兎達はただの道具でしかないのだから当然と言えば当然”(L第二話、p32)であって、市民と奴隷の描写を通した月の都への皮肉でしょうか。しかし、月の民であった輝夜も環境のせいにする心を自省していることから、道具は道具らしくという話以上のものがあるようです。

 環境のせいにするのが誤りである本当の理由は何でしょうか?

 

 ここでは逃走への評価を裏からみて、義務の位置づけを考えます。

 永琳と紫は地上の人間や妖怪の義務について述べます。

 永琳は医者を開業した理由について、「これからは地上の民として暮らすのですから、地上の民の勤めを怠ってはいけません。お互い他人の為に働く事が地上の民の勤めなのです」と輝夜に説明します(L第二話、p48) 

 紫は幻想郷の人間の義務として、外の人間と同様の学ぶ事、働く事、社会に参加することつまり納税することを挙げ(「月の都から新しい幻想郷の住人が現れたのよ? それなりのお返しを頂かないと。そう、住民税みたいなもんね」(L第五話、p105))、加えて妖怪との付き合い方の義務を挙げます。いわく、[ 幻想郷の人間は常に妖怪に襲われる危険があるが、その恐怖を甘んじて受けなければならない。人間は妖怪に対する恐怖を完全には拭わない。] この義務には妖怪の義務が対応しています。[ 妖怪は人を襲うことで存在意義が維持できるのであって、妖怪は人間を襲うが無闇に食べたりはしない。そして、幻想郷のシステムを維持し、幻想郷に住む者の生活を支えるのは妖怪の義務である。]

 

 二人とも義務を重視する感覚の持ち主です。しかし、なぜ義務は守るべきなのでしょうか。その観点から共通点を取り出すと、特徴的な考えが示されていることに気付きます。地上の民の社会も、人妖の共存の機能する仕組みも、相互に義務を満たすこととしてイメージされていることです。

 このことを説明する理屈はいくつか考えられます。

 

相利共生

 まず、視点2でも取り上げた群集生態学の、個体同士が相互の利益となるように行動して共生するという、相利共生の視点です。相手から利益が返ってくるとの予測の下にとる相互的な利他行動をさして、互恵的利他行動と表現されることもあります。*4

 相利共生の考え方は、人妖が共存する地上のあり方の具体的説明になります。幻想郷を結界によって隔離された一つの生態系として捉えると、妖怪と人間のどちらが増えすぎても減りすぎても生態系を維持することができません。妖怪か人間が絶滅しないためには、何らかの平衡状態に達する必要があります(人間と妖怪の力の均衡の重要性)。この平衡状態を人間と妖怪の相利共生という、互いを必要とするバランスの中で達成しようという考え方です(『東方求聞口授』 第二部対談p46、[生物多様性のバランス] ”「幻想郷はお前らに言わせたら、人間は弱いけど生かされているんだろ? それは自然淘汰に逆らっていないのか?」「逆らっていないですね。人間が居なくなるという事が、妖怪にとっては致命的ですから。そういう意味では、生物学的に弱い事が自然淘汰される理由、という訳ではないのでしょう。」「ふむ。弱者を生かす事も勝者にとって必要だという訳だな。」”)。逃走は相互関係と平衡状態を崩すものとして非難に値すると考える余地があります。 

 ただし、厳密にみれば、いくつかの限界も抱えています。まず、メリットがあるゆえに互恵的な行動を選択するという考え方(功利主義的な理由付け)であることが説明に限界をもたらします。同様に、人間が関わる社会制度特有の意味合い、たとえば儀式的、儀礼的、呪術的側面といったものも説明することができません。加えて、相利共生は長期的なつながりを前提とするものであり、一回限りの行動を説明できないという限界もあります。

 

 レイセンの置かれていた環境は、説明できないケースにあてはまってしまうようです。餅つき兎が餅をつく、実際には薬をこねるというのは、”我々月の兎は自分に何の利点もない餅搗きを毎日やらされていたのだ。しかもいつ終わるとも判らないのである。””もう周りの仲間にとっても餅搗きはただの意味のないルーチンワークと化していた。”といいます。捕らえられている嫦娥の贖罪の為というのは月の兎自身にとってメリットがあると感じられておらず、相利共生を崩すから逃走はダメという理屈では非難するのが難しくなります。

 

□合意によるルール

 次に、皆の最低限の自由を確保する為には、ある程度の決まりのようなものが必要となる、それが少なからず不自由を生むが、皆の自由の為には不自由に耐えて義務を果たすことも必要であるという考え方です(注5)。ルールなしで放っておくと皆の最低限の自由を守れない問題が生じるから(自然状態と生存の問題)、皆でルールを決めて回避しよう(社会契約)といった考え方です(自由主義的な理由づけによる権力の正当化)。

 これも幻想郷の人妖の共存をどう作り出したかの説明になります。

 しかしこの考え方は、月の兎にはあてはまりません。月の兎は月の民の道具的存在であって月の都にいる限りそもそも自由ではなく、逃走した方が遙かに得られる自由が大きいからです。レイセンも、”だから、私は逃げ出した。兎にだってもっと自由があってしかるべきだと。”(L第六話、p122)と振り返ります。ルール形成の仕方についても、そもそも月の兎は月の民との圧倒的な上下差別におかれる環境を合意してそうなったのか、非常に疑問です。それでも単に皆のルールだから守るべしというのは、自由なんてないと表現を変えて言っているに過ぎません。

 

□交換による社会形成

 このように見てくると、レイセンの逃走の否定的評価の裏には、義務を果たすことについて、なかなかにとがった考え方があることがわかります。

 ”環境のせいにしない””自分の働き以上の見返りを期待しない”ことをひっくり返すと、まず自分から与えよ、という考え方になります。

 そこで最後に世界観の説明になるものとして持ち出すのは、相互に何かを与える贈与(互酬性贈与)=交換 を社会形成の基礎とみる考え方です(「贈与論」)。*5 義務を果たすことを、義務の交換という文脈で捉えます。

 

 交換は与えること、受け取ること、返すことの3つの要素からなります。近代以前の社会では、人々と集団が相互にあらゆるものを交換し合う、全体的な給付の体系によって経済・法体系を作る例が多くあったとされます。

 物を受け取るということ、権利義務をやりとりすることは、様々な点で物を贈る側と贈られる側とに縛りを課し、両者を結びつけるものです。また賽銭が金銭以上の意味を持つものであるように、贈られる物は物以上に霊的な意味や社会的関係性の意味を持つことがあります。そこでこれらの社会にあっては、贈り贈られることが、事物に表された魂や霊的なものをやりとりし、呪術的、宗教的、倫理的あるいは法的に、社会的な関係を構築する手段となります。反面、贈与しないこと、贈与されて受け取らないこと、返さないことへの否定的評価として下されるのは、体面を失い、魂を失い、指導力や呪術的霊力を失うことです。それは社会的な交流や経済の流通を止め、饗宴や呪術的、アニミズム的な儀礼、儀式を止めることでもあるからです。こうしてこれらの社会においては、与え、受け取り、返すことは、集団や個々人にとって事実上の義務として観念されるようになります。

 これらのやりとりにあっては、何を贈るかは社会的立場や役割、集団の関係性を反映します。つまり贈与と贈与者と贈与物は、それぞれが密接な関係にある関係項です。たとえば、首長やシャーマン、巫女のような役職者が贈る護符、銅製品、霊、呪術的サービスといったものは、互いに同じ機能を備えています。より一般化すると、物を与え、物を返すのは、挨拶と同じく“人が互いに「敬意」を与え合い、「敬意」を返し合うから”であり、同時にそれは、”何かを与えることにおいて、人が自分自身を与えているからでもある。そして、人が自分自身を与えるのは、人が自分自身を(自分という人を、そしてまた自分の財を)他の人々に「負っている」からなのだ”といわれます(前掲注5・p295)。したがって交換は社会分業としての性格も帯びます。人間の贈与は人間の本分を果たすことであり、妖怪の贈与は妖怪の本分を果たすことであって、それが逆転してはならないわけです。

 

 交換に様々な意義を見て、社会関係を形成し安定化する手段ととらえると、倫理的な義務や市民意識の原型が導かれます。これが、先の逃走を否定的に評価することになります。環境のせいにすることは、環境や社会というものがまずあってそこから何かを受け取ることを期待する考え方であり、与えることが環境を作り出すとみるのと真逆の考え方であるからです。 

 また、損得勘定にもとづいた有用物の生産と交換とは異なり、個々の行為、贈与物自体の有用性は必ずしも必要ではありません。相互性のある交換全体の中で、社会関係を形成するものとして様々に意味が付与されていくためです。交換の動機となるのは、純粋に自発的で、見返りを求めない給付という観念でもなく、純粋な損得勘定にもとづいた有用物の生産と交換という観念でもなく、これらが混ざり合った混合物です。

 

 この見方は地上も月もカバーすることができます。レイセンの例では、意義も利益も感じられないなら、もはや労働は贈与とすらいえます。しかし贈与には様々な形のパワーバランスを生み出し、相互に行うことで社会を形成する機能があります。また主体性を取り戻す方法として、与える存在として自分を捉える贈与の視点があります。贈与論の枠組みにならえば、相互性の中でやがてやりとりされていくものは相互的尊敬です。義務にしても、むしろ積極的に負いにいくことでその正当化に近づくという、奇妙な逆説があるのかもしれません。*6

 レイセンが逃げ出したのは義務からのようであって、その実、餅を搗いて歌を歌って暮らす日々、義務の付帯したコミュニティーそのものからでした。輝夜の場合は、地上のコミュニティーへの順応の過程として、いかなる形であれ、何か義務を負うことに変化の兆しを感じています。*7

 

 いずれにせよ、ここで導入しておきたい視点は、一見すると単独でただ何かを負う行為も、交換のような相互性のあるやりとりを介せば社会形成の基礎になる、ということでした。

 儚月抄の世界観を振り返ると、生物の多様性が活性化につながるという社会の視点(視点2)と、生きることを意味づけることという個の視点(視点3)は、互いに義務を果たすことで環境をつくり出す、個から社会へというベクトルの思考でつながっています(視点2と視点3の接続)。

 

*1:L第六話、p120 “そもそも、何故私がこんな殺伐とした戦いの前線にいるのだろう。私は元々歌を歌い、餅を搗いて毎日暮らしていた。退屈だが平和な毎日だった。昼間は餅を搗き続け、夜はお酒を呑みながら将棋をしたりしていた。あの頃が懐かしい。” p122 ”今から思えば、自分は高い能力を持っているが環境がそうさせないと思っている者は、大抵何も出来ない奴である。私は典型的な愚か者だったのだろう。愚かな私は建設的な仕事じゃなければ、逃げ出す事の方が善だと自分に言い聞かせていた。自分を上手く使えない社会の方が間違っているんだと考えていた。勿論、逃げ出している間、心の平穏を保つ為の言い訳である。” p134 ”ただ餅を搗いて歌を歌って暮らしていた数ヶ月前のあの頃が懐かしい。”

*2:L第二話、p38 “月の都にいた頃も同様に、やる事が何も無かった気がする。退屈さ故に地上に憧れたものだったが、地上に降りてきて初めて判った。やる事がないのは月の都や地上など環境に関係なく、私自身の問題だと。何事も環境の所為にする心が退屈さと窮屈さを生むという事を。”

*3:L第二話、p48 ”地上の民は自分の働き以上の見返りは期待してはいけない。必ず不幸になるからである。ただ、理解できるのだがまだ実践できていない。私に限らず、幻想郷にはその地上の民の勤めを果たしていない者が多い気がする。そんな悩みを永琳に打ち明けると「輝夜は自分のやりたい事だけすればいいのよ。もしやりたい事がなければ、やりたい事を探す事を仕事にしなさい」とはぐらかされる。”

*4:似て非なるものとして、『東方求聞口授』第二部対談では、外の世界での仕事観は他人の利益の為に働く事が仕事の充実という内容に変化していく、つまり利他行至上主義(他人に尽す事が美徳で、充実した生活を送るのに必須という考え)に行き着くというやりとりがあり、神奈子・白蓮・神子が賛同しています(p39)。

*5:マルセル・モース『贈与論ほか二編』「贈与論-アルカイックな社会における交換の形態と理由」p409、岩波書店、2014 “わたしが全体的給付の(クラン間でおこなわれる全体的給付の)体系と呼ぶことを提唱している体系がある。この体系においては、人々と集団が相互にあらゆるものを交換し合う。この全体的給付の体系は、わたしたちが互いに確認しうる限りで、そしてまたわたしたちが想像しうる限りで、もっとも古い経済・法体系をなしている。これが基礎となって、その下地の上に交換=贈与の倫理が浮き彫りになってきたのである。そしてこの体系こそ、その規模に違いがあるとはいえ、わたしたちの諸社会がこちらに進んでほしいとわたしが思えるような経済・法体系と、まったくもって同じタイプの体系なのである。(中略)人類進化の端から端まで一貫して、英知の教えは一貫している。これまでも行動原理であり続けてきたもの、そして、これからもずっとそうであり続けるであろうものが、あるのだ。わたしたちの生活原理としても、だからこの行動原理を取り入れようではないか。自分のそとに出ること。つまり与えること。それも、みずから進んでそうするとともに、義務としてそうすること。そうすれば過つ恐れはない。”

*6:ちなみに、この奇妙なノリや話の展開が一体何を意味するのかは、東方求聞口授が影響を受けている、なんとかの話をしよう本の第九章以下を見るとわかります。

*7:L第二話、p38 “だから私は退屈な日々を打ち破る第一歩として、盆栽を愛でることを仕事にした。それだけだが、毎日やらなければならない事があるだけで気分は大分変わるものである。” p48 ”今はまだ、地上の民として自分がやるべき仕事は見つかっていないが、優曇華の花が咲く頃には何かを始めている筈である。むしろ、何かやりたい事を見つけた時に花が咲くのかも知れないと思った。”

Ⅱ-iv.地上の民と穢れの少ない草原 : まとめ

D. 永琳と月の酒

 

 毒を渡すもっとも良い方法は贈り物にすることです。物語の酒宴において酒にどんな意図が込められているかは、飲んでみるまでわかりません。*1

 紫いわく“「失礼ね。毒なんて入ってないわ」これはどうやら紫のギャグらしい。”(p182)

 永琳が酒宴で得たものは贈り物だったのか毒だったのか。L最終話では「死ぬことのない者に与える、生きることを意味する悩み。正体の判らない者*2 への恐怖」という表現があります。なぜここで、正体が判らない者への恐怖、生きることを意味する悩みという目新しい組み合わせが並んだのでしょうか?それは言葉遊びや詩的表現もさることながら、ここまで見てきたような、小説版の底流を流れてきたテーマの合流点であるからと考えられます。

 A.+C. 月の酒は住民税であって、それによって抱いた正体のわからない者への恐怖は、死を伴わない人妖の生存競争の産物である。妖怪を恐れない賢者は、妖怪との付き合い方の義務を果たす。B. 死ぬことのない者=それだけでは生きても死んでもいない者 が、地上の住民の証=生きることを意味する悩みを得る。

 このようにAからCまでで見てきた観点が反映されています。幻想郷の力の均衡の観点からは、望郷の思いに応える贈り物の皮を被った毒、つまり牽制としての意味はもちろん重要です。それに加え、幻想郷の住民の相互性という観点からすると義務を果たした住民資格承認の瞬間でもあります。儚月抄の酒オチは、競争の肯定、穢れの忌避、死なない者との共生、幻想郷の住民の義務といった観点で構成されています。

 永遠亭のメンバーは、形式的には永夜抄が終わった時点で地上の住民の位置についていました。しかしそれだけではまだ足りないということを示唆するのがL第五話の藍と紫の会話です。*3  住民であることのもう一段上に、相互関係に入って社会に参加するという段階があります。永琳が人間社会の相互性に入ったのは医者を開業した時点、妖怪と人間(元宇宙人含む)の相互関係に入ったのが儚月抄の酒宴の時点と考えられます。

 

 

*1:先に引用したモースはこのようなことも言っています。『贈与論ほか二編』「ギフト、ギフト」p43“こうした諸概念の連鎖はゲルマン系の諸法・諸言語ではことのほか明確である。だから、どうしてそこでギフトという語彙に二つの意味が組み入れられるのかが容易に見て取れる。実際、古代ゲルマン人と古代スカンジナビア人にあって給付の典型は何かといえば、それは飲み物の贈与、ビールの贈与だったのである。ドイツ語でこれぞ贈り物といえるものは、注がれるものにほかならない。(中略)この種の作法においては、贈与はもっぱら飲み物をみんなで一緒に飲むとか、酒宴を奢るとか、お返しの酒宴を開くとかいったかたちでなされるわけだけれども、こうしたときほど、贈り物が善意にもとづくのか悪意にもとづくのかの見きわめがつかなくなる場合はほかにないということ、これである。贈り物が飲み物である場合、それは毒であることもありうる。もちろん、陰惨な悲劇の場合は別として、原則としてその飲み物が毒であることなどない。けれども、それが毒になりうる可能性はつねにある。いずれにしても、贈り物としての飲み物はつねに呪力をもつものである(英語のギフトという語にはこの意味合いが残っていた。)。その呪力によって、その飲み物を分かち合った者たちは永遠に結び合わされることになるとともに、そのうち誰かが道義にもとることをしようものなら、その人にはつねにその呪力が逆に跳ね返りうることとなる。贈り物としてのギフトと、毒としてのギフトを結びつける意味上の類縁関係は、したがって説明が容易であるし、自然な関係なのだ。”

*2:口授には次のような記述があります。p41 “[本来の意味での妖怪の正体とは] 魔理沙妖怪の正体とは?」神子「人間が正体不明な物に怯えたり、畏れたりする心ですよ。それが妖怪や神を生む。(中略)最近になって人間がそう考え始めた訳では無く、昔からそう考えていた人間も居た、という話です。」”

*3:L第五話、p106「人間の義務……ですか。そう言われてみればそんな気もしますね。あの者達は妖怪を恐れないし、それどころか人間の力を強めパワーバランスを崩しかねない。ですがそれと今回の月侵略計画は何の繋がりが……」「さっき言ったでしょう? 私は住民税が欲しいと。人間の力を強めるといっても、怪我や病気を治したり、人間の護衛に付く程度ならなんて事もない。それよりは、納税の義務を果たして貰わないと、社会には参加できていない」”