Ⅱ-ⅱ .地上の民と穢れの少ない草原 : 死ぬべき定めの儚い存在vs.いつか死ぬこと

B. 死の不平等と生きること

視点3:生きることを死なないことに勝たせる

要約:仮に理想郷を構想するとしても、地上の民が「いつか死ぬこと」から逃れられるわけではない。それでも、地上の民の生が不死の存在に及ばないわけではない。儚い存在の活路は、「死なないこと」の追求よりも、寿命の長さの問題ではない点で「生きること」を意味づけることにある。

 

□七難八苦

 依姫から教わった本当の穢れとは何かについて、レイセンは「月の都が嫌った穢れとは、生きる事と死ぬ事。特に生きる事が死を招く世界が穢れた世界なのだ」と述べます(L第六話、p130)。ここにいう穢れは、その言い方と、死をとりわけ忌避する点で神道の穢れ概念に根ざすものといえます。神道にいう穢れとは、概ね以下のようにまとめられるものです。

 “神道で言う穢れというのは、大まかに言うと死や血・悪い行いなどを指します。現代社会では希薄になりつつありますが、女性の出産・月経なども穢れとされてきました。穢れは気枯れとも書き、それそのものの不浄を指すのではなく、それによって、気が枯れている状態という考えが一般的です。” 日本神社―神社用語辞典、http://www.jinja.in/column/k/121599

 

 またL第三話、第六話では、生も死もない月の都は浄土と言われ、生きるために競争しなければならない地上は穢れた土地、穢土と呼ばれます。浄土とは、人間の往生の目的地となるような清浄で清涼な世界を指す仏教用語であり、穢土とは煩悩に満ちて苦の多い現世を指す言葉です。仏教では、人間の問題状況として生・老・病・死の4つを苦(思うようにならないこと)と捉え、そこから大乗仏教小乗仏教など、宗派ごとに解決策が分岐していきます。生きる事と死ぬ事双方を穢れと捉えること(L第六話)、地上に住む・生きる・死ぬ、それ自体が罪であり、地上に這い蹲って生き・死ぬことが最大の罰である、とする豊姫の言葉(S第十八話、底巻p100)は、生も死も苦と捉える四苦の考え方に通じるものです。

 

 地上には穢れが満ちており、生と死は罪であり罰であるという儚月抄の地上観には、二つの宗教観の考える人間の苦難が合わさっています。死ぬべき地上の者は、死を重ねて否定するこの価値観を、宗教的解決策の提示なくして不死者から突きつけられます。神も仏も敵に回したような絶望的な状況に対して、いつか死ぬべき者は、不死者に何も言い返せないのでしょうか。

 

 一つの方法は、死を忌む穢れの概念自体の否定です。たとえば、生きることは死を招くものの、死をもって新たな始まりと考えるといった、別の見方で上書きすることです。たとえば、死を忌むべき存在と考える神道的な死生観と異なり、生と死を連続的にみて、死後の世界や輪廻転生という観点を許容するのが仏教的な死生観です。

 しかし、儚月抄の設定では浄土は月の民の都であって、地上の民のものではありません。地上の民は、死後の世界・極楽浄土への往生という宗教的救済によって死の否定的評価を覆すことはできません。(その意味で、以下でしようとしている話はいわゆる宗教的解決ではありません。穢れを否定しないことについて、伝統的価値観の尊重という面があるのは視点2で述べた通りです。穢れが“神主”として神道的概念に由来するものならば無視できない、という側面があったとしてもです。)穢れを背負って退路を断たれて、果てしなく低い地上からどう反論するかが問題です。

 

□究極の開き直り

 別の方法は、たとえ生きることが苦であり穢れを背負っているとしても、死なないことに勝る、と言い切ることです。小説版では、地上の者にとって重要なことは不老不死ではなく生きることの意味づけだ、という視点が各所に現れます。

 水江浦嶋子のエピソードでは、不老の価値が反転します。通常のおとぎ話の浦島太郎では、玉手箱を開けて老いたことを、戒めを破ったことによる不幸と捉えて終わります。ところが、儚月抄では老いること自体の年の功という側面を足がかりとして、老いた先に筒川大明神として祀られるという展開をとりました。*1 その結末に対する豊姫の言葉は「神様となり、その上に未だに名前が残っているのであれば彼も幸せでしょう。」という肯定的な解釈、つまり月の民も認める幸福です。

 藤原妹紅のエピソードでは、不死の価値が反転します。妹紅は永遠の命を得てしまったことを悔やみます。不死によって得たものは、自己について、生きる為の行動について、意味を喪失した退屈な日々であったからです。罪業を背負っての永遠の命であることが、苦しみをいっそう増しています。*2

 月の民にあっては、寿命が無いのは、生きても死んでもいない状態と認識されています(L第三話、p58 “月に移り住んだ生き物は寿命を捨てた。寿命が無くなるという事は、生きても死んでもいないという意味である。”)。寿命がなく「死なないこと」は「生きること」とは別物です。

 

 こうして寿命の長さが絶対的価値ではないという流れが見えてきたところで、地上の者の活路が開けます。寿命の長さに左右されない点で、「生きること」を意味づけるという方法です。[生きることの意味]を[寿命の長さ]より上位の価値だと考えることで、「生きること」は「死なないことに勝る」、と正面から反論することが可能になります。

 第二次月面戦争を儚月抄の主旋律とすれば、この視点から見えてくるものは、副旋律にあたるものです。一貫して語られ続けているのは、

知りたいことを持つこと*3

苦労を楽しもうとする余裕の心*4 、

日常のどうでもいいことの捉え方*5 、

興味*6 、

考えること*7 、

ライバルとの決闘(競争心)人間(顧客)からの感謝*8 、

そして悩むこと*9 。

つまり、地上において「生きること」を意味づけるもの、精神のありようが、寿命の長さや「死なないこと」の優位を乗り越えていくことでした。

 霊夢輝夜との会話の中で、変化なく寿命の長いことがよいことだ、という考え方に反論し、寿命が長くても心が腐っていれば意味がない、という徹底した立場を示します。*10

 生老病死が苦であり、生死が穢れであるとしても、まだ心が残されています。

 

 ここで起きていることは、新しい視点の付加による勝利条件のすり替えです。

 「いつか訪れる死」は、儚い存在が宇宙や神に続いて向き合う、第三の絶対者ともいえます。先に昔の人の次のような言葉を引用しました。“人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。…なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを知っているからである。宇宙は何も知らない。” 絶対に敵わない死という存在に対しては、不老不死の追求=死との力比べ でなく、生きることを意味づけることで逆転する=考える勝利 を目指すのが正道なのかもしれません。

 

□死なないものと生きること

 ところで、地上に降りた輝夜と永琳には何が起きているでしょうか。輝夜は“すぐに穢れはこの屋敷にも広まり、永遠亭は地上の一部になっていくだろう。この優曇華に花が咲くのも時間の問題であると思われた。私や永琳の心境に微量な変化が見られるのも、恐らく地上の穢れの影響であろう。”(L第二話、p40)と述べます。この心境の変化は生きることを意味づける者への変化であり、死なない者についた地上の埃です。永琳と輝夜に特徴的な、働くこと*11 と、やりたいことを探すこと*12 も、上に並列したものと同じ文脈で理解することができます。

 

 地上の者が不死者に対して自らをどう位置づけるかは、輝夜、永琳、妹紅ら地上の不死者(蓬莱人)との共存とパラレルな問題でもあります。

 人妖が共存する幻想郷においてなお、蓬莱人以外の地上の人妖=いつか死ぬ者 であって、不死者とは、死を忌む穢れの概念を境に対置されるはずでした(地上のいつか死ぬ者 vs. [地上と月の不死者]=死なない者)。

 しかし、生きてなすこと、なしたことの意味が寿命の長さより重要だ、という図式を持ち込むことで、地上の住人=生きることを意味づける者 という再分類が可能になります。すると、両者は対等のスタンスで生きる幻想郷の住人として包容されます([地上のいつか死ぬ者と蓬莱人]=生きることを意味づける者 vs. 月の不死者=生きても死んでもいない者)。妹紅は九百年の迷いの末に生きることを意味づけるいまに至り、永琳は人間の社会に順応し始め、輝夜は地上における生を模索しています。*13 

 穢れを死を忌む感覚ではなく、原義の「気枯れ」(気力の枯れた状態)に読み替えると、生きることを意味づけることは一般的にその解消に向かうものといえます。*14 境目となっている穢れの概念を原義に読み替えると、不死者と死ぬべき存在の対立が解消する。そう考えると、いかにも東方らしい落としどころかもしれません。*15

 

 浄土と穢土、生存競争の穢れという言葉が出てきた第三話「浄土の竜宮城」(2007年12月)とほぼ時を同じくして世に出た作品に、『幺樂団の歴史5』(2007年12月)があります。そのあとがきに、次の言葉が記されています。*16

 「これらの曲を書いてから早13年か……。率直な感想、13年なんてあっという間だ。無為に日を過ごしてはいけない。あっという間に気力と体力を奪われ、そこに残るは鉛の夢。三途の川も渡れぬ重金属の霊魂。死は誰にでも平等に訪れるだなんて誰が言ったのだろう? 少なくとも人間は生き方次第で別の生き物になる気がする。」

 死の不平等と、生きても死んでもいないような魂、人間の生き方。ここには儚月抄で取り上げられた生と死への視点そのものがあります。儚月抄が死生観において行った試みは、死の不平等を仮定し生き方のちょっとした違いを生の条件として照らし出す、儚い人間のための思考実験でした。

 

 

*1:L第三話、p64 “しかし、老人となった事が幸いした。三百年前の話を知っている老人は、村では生き神様の様な扱いを受ける様になった。彼の不思議な話は神の世界の話と信じられ村では伝説となった。当時の人間には彼ほど老いるまで生きられる事は少なく、また文字も読めなかった為、話が出来る老人はもて囃されたのだ。浦嶋子が若い姿のままだったら、ただの与太話だと思われただろう。”

*2:L第四話、p78 “不死になってからもう千三百年くらい経つだろうか。不死になってから最初の三百年は人間に嫌われ、身を隠さないと自分にも周りにも迷惑を掛けるという悲しいものであった。次の三百年はこの世を恨み、妖怪だろうが何だろうが見つけ次第退治する事で薄っぺらな自己を保つ事が出来た。その次の三百年はその辺の妖怪では物足りなくなり、何事に対してもやる気を失う退屈なものであった。その次の三百年、ついに私は不死の宿敵と再会し殺し合う事に楽しみを見い出す事が出来た。” p85 “生者必滅——生きとし生ける者は必ず死ぬ、それが世の定めである。だとしたら私はあの薬を飲んだ時から生きていないのではないか。生きる為に行動する事は意味が無い事ではないか。私は何を目的に行動すればいいのか。” p90 “「——不死になってから三百年位死ぬほど後悔したよ。まあ死ねないんだけどね。何であんな事をしてしまったんだろうと」”

*3:L第七話、p142 “「いつでも知りたい事を聞く事が出来る環境は、知りたい事を減らしてしまうのよ。知りたい事を失った人生は、不幸以外の何物でもないわ。そう…長く生きていると特にね」言うまでもないが、幽々子様はとうの昔に亡くなって、亡霊として冥界に留まっているのである。しかし、幽々子様は『生きている』という表現を多用する。”(*注―ここで、「生きている」という言葉のニュアンスが形式的な生死を超えて、何か実質的な意味をもったものに変化していることに注意する必要があります。たとえば、地上の民として在ること、何かの意味を有する生きること、といった内容です。)

*4:L第五話、p110 “見窄らしいロケットで、惨めな思いをして旅するから楽しいのだと。最短の方法で楽して手に入れた物にはなんの価値も無いと。苦労を楽しもうとする余裕の心である。人間も妖怪も長く生きているとその心は失われていく物である。だが吸血鬼達にはその心が強く残っている。”(*注―この点は生老病死を四苦と捉える状況設定に直接応える点で、クリティカルな返しだといえます。)

*5:S第九話、p30 ”「…リゲル ベラトリクス タビト」「……なんの話でしょうか?」「あのロケットたちに愛称が必要でしょ?」「必要……でしょうか?」「永く生きていると必要な物ばかりになって困るのよ」「はぁ 私はその逆に必要な物が減っていくと思ってましたわ」―「日常のどうでもいいことが重要になってくるの」” 

*6:S第二十話、p133 “「やはり……お子様ですね まだ500歳くらいでしたっけ?」「お嬢様は長く生きれば生きるほど興味が湧くようになると仰ってましたが」「だから もっと長く生きた妖怪は新聞記者になるのです」”(*注―咲夜と文の皮肉の応酬でわかりにくくなっていますが、文に応酬する咲夜発言は、長く生きていて興味が低い存在への皮肉です。それを受けて、射命丸が手のひらを返して興味の高さの価値を認め、新聞記者の自分は興味が高い存在だと暗に言っています。)

*7:L第五話、p99 “調べてと言ったが実際には自分で考えて欲しいと思っている。ただ調べるだけなら式神(コンピュータ)でも出来る。外の世界では式神に帰依して抜け殻のような人間も多くなってしまった。私は式神式神以上の仕事を与える事で毎日の退屈な生活を、ちょっとでも改善しようとしているのだ。”(*注―「退屈」な生活に対応する表現は、他の場面では不死の輝夜がやりたいことを探し始める前、妹紅が輝夜との決闘に生きる意味を見いだす前と、月の兎レイセンの餅つき兎としての生活について使われており、「死なないこと」と同様、寿命が長いだけでは意味が薄いという文脈を示します。)

*8:L第四話、p78 ”その次の三百年、ついに私は不死の宿敵と再会し殺し合う事に楽しみを見い出す事が出来た。そして今、私の存在も人間の社会に適応しつつある。今は永く生きてきた知識と長く闘ってきた力を使い、人間の護衛を行っているのだ。竹林に迷い込んだ人間――それは外の世界から迷い込む人間も含めてである、を竹林に棲む妖怪の手から守る仕事を行っている。昔は決して有り得なかった人間からの感謝が、今の私の生きる支えである。不死を恐れない人間のいる幻想郷はまさに楽園の様であった。”…p90 "そうだ、不老不死の私が退屈しないで生きていられるのは、宿敵(あいつ)がいるからじゃないか!不老不死の恐怖は永遠の孤独。罪の意識にさいなまれる永い現実。それを共感出来るのは、同じ境遇(不死)である宿敵だけだ。 私が不安に思っている事、それは『宿敵が永遠に居なくなってしまう』事だ。”

*9:L最終話、p185 “紫はにやりと笑った。その笑顔は永琳の心の奥深くに刻まれ、忘れる事の出来ない不気味さをもたらした。死ぬ事のない者へ与える、生きる事を意味する悩み。正体の判らない者への恐怖。”

*10:L最終話、p183 “「もっと豪華で派手な暮らしを望むと思う」「その考えは人間が死ぬうちだけね。これから寿命は確実に延びるわ。その時はどう考えるのでしょう?」「寿命を減らす技術が発達するんじゃない? 心が腐っても生き続ける事の無いように」その答えに輝夜は驚き、生死が日常の幻想郷は、穢れ無き月の都とは違う事を実感した。”

*11:L第二話、p48 “永琳は地上で医者を開業した。今や、里の医者では治せない病気を患ったら永遠亭に行けと言われる程の名医である。昔の永琳では考えられない出来事だった。地上の民は手足でしかないと考えていた人物が、今では地上の民を助ける手足でもあるのだから。” 

*12:L第二話、p48 “今はまだ、地上の民として自分がやるべき仕事は見つかっていないが、優曇華の花が咲く頃には何かを始めている筈である。むしろ、何かやりたい事を見つけた時に花が咲くのかも知れないと思った。”

*13:妹紅に似て、父王の復讐を果たそうとする「ハムレット」(シェイクスピア作戯曲の主人公)は “To be, or not to be: that is the question.“という有名なフレーズを述べて自問しました。この表現の前段は「生きるべきか死ぬべきか」とも「復讐すべきか、すべきでないか」とも訳されます。地上の民にとって、生きることと生き方を選ぶことはかくも表裏一体です。

*14:仏教的死生観を反映した花映塚のあとがきでは、容易に達成できない大きな目標から小さな目標への連鎖が過ちを防ぐという文脈で、大きな目標の例として「死後の生活を良い物とする」ことが語られています。「今をよくしようとすること」は小さな目標の例です。この項目で述べている結論は、理念から意味づけるという花映塚におけるこの思考方法と矛盾しません。

*15:原義から離れてトラブルが生じた逆のケースとして、茨歌仙第二十話「間違いだらけの酉の市」など

*16:もちろんシリアスばかりでなく、同時期に黄昏酒場~Uwabami Breakers~でおでんやオニオンフライを飛ばしていることも忘れてはいけない一面です。