Ⅰ. 考える葦とその相手 : 地上の民vs.宇宙と高貴な神々の力(儚い存在vs.絶対的存在)

視点1:儚い地上の者達と絶対的存在をともに讃える世界観

要約:儚い地上の者達の挑戦と未知の宇宙のロマン、あるいは儚い地上の者達の挑戦と神々の力を比較したとき、儚月抄の世界観にとってはどちらも重いものなので、片方の完全な勝利はない。したがって、両方に華を持たせる結果となる(ロケット組は月にはたどり着くがロケットは大破、月の民とは、実力による勝負では神々の力と進んだ科学力を用いる絶対者の側の勝利、知恵では儚い者達の側の勝利となる)。

 

A. ロケット組の戦い――妖怪宇宙旅行

 

□連携による勝利

 宇宙へ行くことは人類のロマンとされ、様々に挑戦と挫折が繰り返されてきました。それは作中でも簡単に実現するものではなく、作中でもロケット組の戦いは宇宙を目指すところから始まっているといえます。

 漫画版でロケットの作成過程をみると、ロケット作りの主導(レミリア)、資料・材料集め(咲夜、香霖)、魔力の器の作成(パチュリー)、様子見と降ろすべき神についての助言(妖夢幽々子)、神降ろしとそのための訓練(霊夢、紫)、永琳を計画に引き込むための漏れない伝達役(藍)*1 、月の羽衣の添付(永琳)、謂われのある星からのロケットの名付け(魔理沙、永琳)と、地上の民の総力を結集して作られていることがわかります。

 こうしてできた三神式月ロケットには、二者尊重&折衷による創造という発想が複数あります。その精神は、仕様を説明する際のパチュリーの言葉「ロケットに限らず魔術は― オリジナルを尊重し そこにさらにオリジナリティを付加して残すのが 我々魔法使いの誇りですから」とレミリアの返答「ロケットも神社も尊重することで そこに自分たちの意匠が生まれるってわけね」(S第六話)のやりとりに表れています。(パチュリーの言葉のベースになっているのは、永夜抄マニュアルのアリスの説明「魔法使いの魔法は常に術者オリジナル」であって、さらには東洋と西洋と幻想の『上海アリス幻樂団』の創作精神なのでしょう。)そうして、コウモリと鳥居のマークが付加され、洋風の内装と注連縄と千社札、神棚を持つロケットがデザインされたのでした。同様に、ロケットの発射にあたっての儀礼(S第十話)も、幻想郷の魔法と外の世界の科学の折衷であることを反映して、神式と、ロケットのモデルを生んだキリスト教国の儀礼双方を反映しています。

 折衷するというのはバランス調整の一種です。鈴仙が笑うような独特なロケットも、バランス感覚の表れとみることができます。幻想郷のロケットは三神式という幻想的発明を組み込むからには、器とするのは科学的にみて不足を感じるロケットがちょうどいい存在です。仮に地上の民が宇宙を目指すのに現実的なスペースシャトルやロケットを用いていたら、感じられる宇宙旅行のロマンは減ってしまいます。高水準な科学の産物にさらに三神を降臨させていたら、なおさら興ざめです。

 ともあれ、地上の者の試みは一応は成功します。外の人類にとって月への到達が大きな飛躍であったように、月に行ったこと、そして未知の世界に行った甲斐あって幻想郷にない海を見たということは、ロケット組にとって重要な成果でした。月到達の価値を裏付けるかのように、月の民が一番恐れている事は、地上の人間が月に来ることだともいわれます(L第三話)。これがひとまずは成功だからこそ、レミリアは月で見た海を幻想郷にも再現して(プール)、住吉三神の神降ろしをした霊夢にお礼をしようとしています。ロケット組は月への到達による勝利の中核部隊であり、境界移動組は酒の奪取による勝利の中核部隊であるために、S最終話「青の宴」は二組の勝利を象徴するプール+酒宴となります。

 

□挑戦の限界

 小説版では、人類は月面着陸は果たしたが月面開発は敗北続きだったという、人類の科学力の限界に関する記述があります。*2

 幻想郷のロケットも、着陸とともに大破してしまいます。咲夜は私たちの目的は月に行くことであって月から帰ることではないとフォローしますが、往復自由であってこそ月旅行だろうという意味では、不完全な達成です(S第十二話、ロケットの残骸とともに海でたそがれる霊夢魔理沙)。これが幻想郷の科学と魔法の限界でした。小説版でも、月旅行としては部分的成功だったことを裏付けるものとして、普通の人間としての魔理沙は月旅行は懲り懲りだという感想を持っています(L最終話、p183以下)。

 

□人妖と宇宙の均衡点

 外の人類の宇宙への挑戦と幻想郷の月旅行は、なぜ成功と限界の両方が描かれているのでしょうか。一つの答えは、地上の者達が時に成果を上げつつも宇宙を制するには及んでいない、両者のバランスを表すものだということです。

 人間の抱くロマンの難しさとして、文明の進歩で何かを容易に実現できるようになれば、同時にそこから感動もロマンも失われてしまいます。小説版のあと書きにも、日常化したものにはロマンを感じないという見方が示されています。*3 外の人類の宇宙への挑戦がなぜ称賛されるのかといえば、広大な宇宙が絶対的存在と目され大きな目標となってきたためでした。二者を折衷する発想がロケットのそこかしこに表れていたように、部分的成功の結末は、地上の者の可能性の称賛と宇宙旅行への憧れを取り持つ、バランス感覚の表れといえます(バランスの調整について、項目Ⅲに関連)。

 ここであえて地上の者と宇宙を対置して理解するのは、儚月抄で繰り返し表れる思考方法の導入です。以下の文章でも、地上の者を片側におき、儚い者vs.絶対的存在といった二項対立の構図を念頭にみていくことになります。

 

 

B. 月の民の戦力――綿月のスペルカード

□高貴なる月の民

 月の神Lunaがとても強い。このことは、高難易度のモードLunaticの存在からして、譲れない一線だったのかもしれません。儚月抄ではその内実が明かされ、月の民は、地上より遥かに進んだ科学力と強靱な生命力、妖怪には手に負えない未知の力を持つとされています。戦力としての科学力の例には、森を一瞬で素粒子レベルで浄化する風を起こす豊姫の扇子や、銃器の類があります。強靱な生命力は、穢れがないために寿命もないことが最たるものです。そして、妖怪には手に負えない未知の力として、作中で念入りに描写されているのが八百万の神々の力です。

 一般に東方の世界では名前や謂われが重要とされるところ*4 、月の民の綿月豊姫・依姫とその使役する神々には、日本神話上の最強クラスの由来が与えられています。綿月家の姓の由来と考えられる綿津見大神、姉妹の名前のモデルである豊玉姫神玉依姫神は、神武天皇の先祖であって数十万年生きたとされる神々です。日本神話がそもそも天皇家の支配正当化につながる(というもっぱらの噂の)神話である点からすれば、まさに毛並みと実力を兼ね備えたサラブレッドです。また、依姫が戦闘で降ろした祇園様(素戔嗚尊)、愛宕様(迦具土神)、金山彦神石凝姥命天津甕星天照大御神天宇受売命伊豆能売は、一般に、日本神話で上位神とされる天津神に分類されます。*5 同様に月夜見様(ツクヨミ神)や、八意××(永琳)にゆかりのある八意思兼神天津神です。

 

□高貴なる月の都

 月の都も地上とは比較にならないほどの高貴な由来を持ちます。月の都で謀反を企む者がいるとの不穏な噂が流れた原因の一つとして、誰かが月の都に住む神々を降ろして使役したという点が挙げられていました。*6 この使役された神々に天津神である住吉三神が含まれることから、月の都は天津神の住む場所といえます。過去の神主インタビューにもそれを裏付ける発言があります。*7 日本神話にこれに対応する場所を求めるなら高天原です。また、生えているのが桃の木ばかりということをとれば道教の理想郷としての桃源郷のイメージも重なります。さらに第三話章題「浄土の竜宮城」にもあるように、仏教の極楽浄土でもあれば、神仙の理想郷ともされる龍宮でもあります。

 問題は、これほどまでに絶対的な謂われと実力を設定した意図です。

 

 

C. 地上の民の戦い方

□昔の人の戦い方

 地上の民は全体として月の民に力で負け、知恵で勝つ結果となりました。そのことを象徴的に表しているのが、巻頭言にある「考える葦」という言葉です。*8 人間は弱い存在だが、考えるゆえに偉大であるという意味のよく知られた言葉です。

 儚月抄で地上の民の弱さを表した言葉といえば、紫の「地上の民は月の民に決して敵わない」発言です。*9 考える葦という表現をたどると、その真意がどのような文脈にあったのかが伺えます。昔の人の次のような言葉です。

 “思考に人間の偉大さがある。人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。しかし宇宙がこれをおしつぶすとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも、崇高であろう。なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから我々のあらゆる尊厳は考えるということにある。我々が立ち上がらなければならないのはそこからであって、我々の満たすことのできない空間や時間からではない。…私は私の尊厳を空間によってではなく、私の思惟の規則によって求むべきである。私は領土のかずかずを所有したとしても、ただそれだけのことであろう。空間によって宇宙は私を一点であるかのように包み込む、思惟によって私は宇宙を包容する。”*10

 上記の文章後半は、先の発言と符合します。葦は弱く風雨でぺこる植物として、聖書以来、西洋世界で弱い存在としての人間の比喩に用いられてきた植物です。そのように弱い存在であるにもかかわらず、相手の力の優越を知っている点で、宇宙との上下が逆転する可能性を持っています。それを起点として、空間と時間の大きさで負けるはずの勝負を、思考の大きさで勝つ勝負にすり替えていくわけです。

 

□葦が考える葦になる必然性

 この符合が偶然であるにせよ意図的であるにせよ、紫発言も同じ論理で理解することができます。実力では決して敵わないことを知っている、それゆえに考えることで挑み、相手を包みこむ。そこではじめて儚い存在の偉大さが発揮されます。

 昔の人のいう宇宙は広大で絶対的な存在の比喩ですが、日本神話で上位の神々である天津神も、地上の民にとっては同様の絶対的存在です。ストーリーの道具立てとしてみると、月の民の側に強力な謂われと絶対的実力があり、かつ地上の民の側に月の民に敵わないことを知る者がいることによって、考える葦の実力を引き出す必然性が生じます。ここで必然性というのは、東方文花帖Shoot the Bulletのあとがきに語られているような、他の部分とつながらない「不自然な形でのシステム構築」でないことです。*11

 なお、考える葦の戦いをあてはめる見方の最大の難点は、月の民が地上の民と同様の人格的存在として表現されていることにあります。たとえば、宇宙と異なり依姫・豊姫・永琳は考える存在であり、おそらく自らの力の優位も知っています。そこで、昔の人の原典にある考えるか考えないかの比較の代わりに、知恵比べという比較をしていると捉えることになります。

 

□その他の葦について

 ところで、考えることから生まれる選択肢は一つではありません。ロケット打ち上げ後のパチュリーと永琳・輝夜の対話で、“「大丈夫よ レミィは躍らされているだけなことぐらいわかっているから」(中略)「じゃあ 貴方が地上に残った理由って……黒幕を懲らしめるため?」”という問いへの答えは、「うんにゃ 痛い目に遭うのが嫌だから」です(S第十一話、p97)。月の民に実力では決して敵わないことを知っている、それゆえに戦いを回避する。これも別の形の賢明な判断でした。

 地上の兎である因幡てゐにも、『東方儚月抄~月のイナバと地上の因幡』26話で同様の現象が起きています。月出身の兎レイセン及び鈴仙が依姫と戦闘訓練をしてぼろ負けしているのに対して、依姫はてゐの落し穴にたまたまかかって目を回しました。このネタの原案がZUN氏によるものとすれば、てゐが幸運の素兎であることを差し引いても、これも地上の民=考える葦 の勝ち方の変化形といえます。

 このように本来人間を指す考える葦という語を妖怪にもあてはめられるのは、月の民と対比された地上の民が、基本的に地上に住む存在一般の比喩となっているためです。

 では、考える役まわりはパチュリーに任せきりのように見えるレミリアはどうなのでしょうか。ロケット組としてのレミリアは、他の人間三人とは異なる特異な存在として描写されています。それは月到着直後のロケット組が依姫に捕縛された際の一人だけ余裕の表情とされるもの(S第十三話、中巻p147)*12 に始まり、一人だけ天照大御神により日光という弱点を突かれて一撃で倒されること(S第十六話、底巻p58)、霊夢の戦闘中に寝ている負けた後の切り替えの速さ(S第十九話、底巻p72)、投了して憮然とする霊夢魔理沙を尻目にのんきに騒ぐ様子(S第二十話、底巻p139左上コマ)、ロケット大破の月旅行を振り返っての魔理沙と違い懲りない態度 (L最終話、p184)*13 と続きます。これらすべてにおいて、普通の人間の振る舞いと対比する形で特徴が表れています。違いを言葉で表したのが小説版第五話の紫による吸血鬼評で、折れないしなやかな心として表れるものでした。

 こうして、ときに月の兎や人間の三人との対比という方法を用いつつ、儚い存在のしたたかな強さが表現されています。

 

 

D. 月の民はなぜ戦闘で圧勝したか

□神々は美しく勝つ

 地上の者が、考えることで強大な相手をも攻略する偉大さを持つこと。これを表現するのは、間違いなく作品の目的の一つでした。しかしそこからは、月の民の絶対的な力をどれだけ念入りに描写するか、という点への答えは出てきません。

 特に、考える勝利を導くことはロケット組の直接的な役割ではありません。そうすると、依姫戦において、長めの尺でじっくりと負け戦を描く必要はあったのでしょうか?

 振り返って月の民と神々の謂われや由来をみると、偶然とするにはあまりに無理があるほど強大に設定されていました。だとすれば、描写についても同じく意図的であるという考えは十分に成り立ちます。つまり、依姫の呼ぶ神々の圧倒的な力を描写することも、まさしく神々の偉大さをきちんと表現するという点で、儚月抄において必然性があったと正面から認める考え方です。

 依姫戦でスペルカード戦は美しさの戦いだ、という魔理沙の説明がありました(S第十三話、タイトルは「月面の美しさ」、中巻p153”「自分の持っている大技をすべてみせて相手にかわされるか潰されたら負け 技と体力が残っている間はさらに続けても構わない でも勝負がついたらおとなしく引き下がる」「普通の決闘と何が違うの?」「美しいほうが勝ちなんだ つまり精神的な勝負ってことだ」”)。開戦の掛け合いのキーワードも美しさです。*14 小説版でも、レイセンから豊姫へ、戦い方の美しさであって美人比べではないという予防線を張りつつ、美しさに力点をおいた説明があります。*15 言い換えると、ここで月の神々の偉大さとして表現されたのは、美しく戦い勝つことです。咲夜魔理沙レミリアのやられっぷり(弾幕のよけられっぷりを含む)も、レイセンの説明にある穢い手の典型である霊夢の穢れ攻撃(S第十七話、底巻p72)も、月の神々の美しい戦いに対比されるものとして意味を持ちます。

 依姫戦に対応する豊姫と紫のやりとりでも、神々の偉大さを表現することを意図していたとみることができます。

 豊姫は由来的には天津神であって、土下座はそれ自体として地上の妖怪が高貴な神々にひれ伏す局面です。この勝負で豊姫が美しく勝つためには、実際に大量破壊兵器の扇子を使うわけにはいきません。そうなると、相手を含めた構図で表現すべく、紫の土下座演出を対比することになります。こうして地上の民の描写は月の民の美しい戦い方に対比されるものという視点に立つと、首筋をとられるチェックメイトの瞬間が霊夢と紫で同時になっているように(S第十八話、底巻p95,96)、土下座は霊夢の穢れ攻撃と対となる表現であって、ともに戦い方として美しくない点に意味があるといえます(底巻p100)。

 またフェムトファイバーの長い説明は何だったのでしょうか。本隊と思われた相手を降伏させ、浮かれた豊姫が饒舌になりすぎたのでしょうか。多分それもありますが、神々の偉大さの表現という観点から考えると、天津神の優れた力(技術力)の自慢といえます。会話をしている豊姫に天津神を表す者としての自覚があり、紫もそれをわかっているからこそ、国津神(土着の神々、月の民の動きに逆らう者)の封印に用いてきた話にそのまま続いています(S第十九話、底巻p107)。こうして天津神を持ち上げつつも、国津神を貶める価値観を描くことが目的ではないため、さらにその直後に国津神への地上の信仰=てゐによるダイコク様の持ち上げが入ります。儚月抄の世界観のバランス感が垣間見えるところです。

 ついでに、妖怪退治には謂われを持った武器が有効だという先に引用した前提も加えると、フェムトファイバーは当事者にとっては実際上の重要性も持ちます。精神的な存在である妖怪にとってみれば、物理的にほどけない紐であること以上に、組紐の素材の謂われにこそ拘束されるといえるためです。

 色々な賛否はあれど、こうして神々の偉大さと美しい勝利を表現することも、おそらく東方的世界観の一部なのです(項目Ⅲに関連)。

 

□世界観の天秤

 こうして、儚月抄に示されたのは儚い地上の者達と絶対的存在をともに讃える世界観ではないか、という結論が見えてきます(視点1)。儚い地上の者達と神々を天秤にかけたとき、儚月抄の世界観にとってはどちらも重いものなので、ともに活躍の機会を与え、両方に華を持たせたという説明です。そのためには、強さの軸を2つ用意することが最も確実な方法です。

 ここで、当事者達の感覚でみて両方のメンツが一応保たれている、という説明を付け足すこともできます。魔理沙と依姫のスペルカード戦交渉合意時の発言(S第十三話、中巻p155)を取り出すと、”「で うちらが全敗したら…おとなしく地上に帰るから」「ふーん それで無駄な血が流れないのであるのならいいかもしれない」「もし私が敗れるようなことがあっても 月の都には入れさせないけど……」「ま そのときは手土産一つでもあればいいや」”です。依姫が勝てばロケット組はおとなしく地上に帰るという、月の民側の目的は達成されました。一方で地上の民も、直接戦闘では二組とも負けたものの、住民税の酒を徴収し、結果的にロケット組魔理沙の言う、スペルカード戦で勝ったら「手土産一つでもあればいいや」を達成しました。こうして双方の目的が達成された形になっており、顔を立てた形になっていることがわかります。

 

□汎用能力による反撃

 ここで決め手となった能力をみておくと、儚月抄は、空を飛ぶ程度の能力や魔法を使う程度の能力が属する非日常能力は、神々の側に勝たせました。対して、地上の民には、しなやかな心と考える程度の能力という、非日常でないものを持ち味としています。これは儚月抄の特殊性の一つといえます。

 以下はまったくの推測になりますが、メタ的な視点で見れば、考える能力で勝つのは儚月抄の企画自体のもたらしたものともいえます。もともと小説・コミック・4コマ並行というメディアミックスに加えて、キャラクターの視点により言っていることが異なり、併せて読んではじめて全体像を理解できる複雑な試みでした。複数の媒体を組み合わせてキャラクターの意図を明かしていく構成は、筋書きとしても、トリックによる逆転になじむものです。

 別の表現をすれば、読者もまた、柔軟性を持って考えることを迫られる立場にありました。したがって、考えるという汎用能力による勝利は、意図を見抜いた読者の勝利とのオーバーラップが目指されていたようにも思えます。

 他方で、受け止められ方は読者の側の事情にも大きく左右されます。小説版あとがきは「ロマンを感じながら生きるという事は難しいのでしょうか?」と疑問を投げかけた上で、人は異質なものにこそロマンを抱くという見方を示し、幻想小説の読者に言及します。幻想郷の出来事にロマンを感じるのは外の人間である、逆に幻想の住人がロマンを感じるのは外の世界の日常に対してであるというものです。

 同じ論法でいえば、もし考える葦の戦いにロマンを感じないとすれば、その人がすでに充分、考える葦だからです。それもまた一つの悪くない結末です。

 

*1:S第一話の以下の流れより。”「ついに宇宙人が動き始めた 予定より遅かったけど誤差の範囲だわ」(中略)「漏れないようにしたから動き始めたのよ 少しずつ異変を感じ取ったのでしょう 宇宙人が動き始めないと私たちも動けない」”

*2:L第一話、p21 “外の世界では、月面着陸は大成功の様に報道されているが、惨敗だった時は報道されていない。最初の月面到達以来、人間は負け続きだったのでそれ以降月面には行っていない事になっている。本当は、何度も月に行っては月面基地開発に失敗している事を、月と通じている私達は知っていた。”

*3:なお、ここでいうロマンは、登場人物である幻想郷の住人が抱く宇宙への思いとは区別する必要があります。幻想郷の住人の動機については、おもしろそう、羨ましいといったロマンそのものでない理由付けが中心となっています。また、紫や豊姫のように目的地に一瞬で到達する方法と、有人宇宙旅行、特にみすぼらしいロケットで苦労しながら宇宙を目指すこと(L第五話での言われ方)も区別する必要があります。妖怪宇宙旅行の曲説明も、ロマンの対象として後者を指しています。

*4:永琳による三神式月ロケットの命名の重要性の指摘や、『東方求聞史記』p32で、妖怪退治では『謂われ』のある武器が望ましいとするものなど。

*5:http://www.wdic.org/w/CUL/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E7%A5%9Eなど参照。天津甕星など一部は異説あり

*6:L第六話、p125“何故、その様な噂が流れ出したのであろう。後から依姫様に聞いたところ、何処かに月に住む神々を正式な手順を踏まず呼び出す者が居るからだという。(中略)地上と月を結ぶ箱船に住吉三神を呼び出す。どうやらそれが月の都で流れた不穏な噂の元だったのだろう。” / L最終話、p161“そして、月に住む神々達が何者かに喚ばれ、使役されているとの事。これが出来るのは依姫くらいである。”

*7:東方求聞口授』、p182 ”僕の中では月の都は高貴な神様たちが居る場所、という設定なんです。で、反対に幻想郷には親しみやすいというか土着っぽい神様たちが居る。神様にもいろいろ派閥があるんだろうなって。で、永琳はその中の一人だったから、幻想郷に来ても他の人間と接触を持たないんです。(中略)というわけで、本当に綿月姉妹は幻想郷側からはアンタッチャブルなんです。必要な措置として。”

*8:巻頭言は単行本化の時点で追加されたものですが、考えるという要素は連載時から作中に頻繁に登場しており、ベースの価値観としては構想時から固まっていたものとみられます。付け加えると、月の都が天津神の都であるならば、土着の国津神がいる地上は葦原中国(あしはらのなかつくに、神話における日本の呼び名)です。葦とは少なからぬ縁があります。

*9:S第一七話で、留守の家を漁るだけでよいのですかと言われて“「どうせ地上の者は月の民には敵わないもの 力では」”(笑顔で) / L第五話で、紫が藍に重要なことを教えるといって伝えたのは“「地上の民は月の民には決して敵わないのよ、特に月の都では」”

*10:ブレーズ・パスカル『パンセ(冥想録)上巻』p219、新潮文庫、1952

*11:文花帖については、弾幕は撮影して切り取ることでパッケージ化が完成すると紅魔郷時点で考えていたが、撮影の必然性がないために断念した、そこで「まず、撮影する必然性のあるキャラと世界をゲームに登場させ、そのキャラを主人公に持ってこよう」と考えて射命丸文から作られたとされます。(文花帖おまけtxt「2.おまけのあとがき ゲームを考えて創る事のススメ」を参照)

*12:三人を対比するコマでの魔理沙発言「吸血鬼は余裕の表情だが 何を考えるかわからんし」

*13:“「あれは、住吉三神を使ったからだめだったんだよね。行く間に二神切り離しちゃってさ。六神くらい居なきゃ帰り分の神様が足りなかった」レミリアが人差し指を上に向けてくるくる回した。どうやら六段分のロケットを表現したらしい。”

*14:S第十三話、中巻p159 咲夜と依姫”「さあ 私の美しいナイフ捌き 残念ながら誰にも見えないかもしれないけど」「そう それでは 私も月の使者のリーダーとして 最大限美しく…」”

*15:L第六話、p152“「美しく相手を制した方が勝ちだそうですよ」「へ?美しく?」豊姫様は何を想像したのか吹き出した。「どうかなされました?」「美しくって誰が判定するの?というか人間が思う美しさって何?美人コンテンストでもやってるのかしら、面白そうだわ」「い、いや、言い方悪かったですかね。美しさというか穢い手を使わないで戦うというか」「ふふふ、判るわ。人間も月の民みたいな事を言うようになったのね……それも誰かの入れ知恵なのかな」「それも……ですか?」”