序.

 東方儚月抄とは何を描いた物語だったのでしょうか。

 ひょっこり出てきた問いから、やけに長いものを書いてしまいました。照れ隠しに、注意書きを少しのせておきます。

 

 目標はさんざん語られてきただろう儚月抄という存在に、少しでも新鮮さを感じてもらうことです。特に狙いとするのは、長編作品としての構成の深みがどこにあるかを考えるとともに、幻想郷の世界観のベースにあるものを引き出すことです。この点に今なお検討の対象とする重要性があると考えています(読み終わるまでにはきっと納得がいきます)。

 何かテーマがあったとしても、先立つ視点がなければ伏線に気付かないことも多いものです。伏線が一見するとレトリックや言葉遊びに見えるときは特にそうです。まして連載形式ともなれば、見えるものも見えなくなって当然です。

 しかし、それではもったいない。味わうにも批判するにも、踏み込んだ理解を経ることに損はありません。

 以下では、単行本出版時にまとめとして置かれたとみられる巻頭言から出発し、世界観をどう拾うかに照準を絞ってみていきます。余分なニュアンスが混入しないようにするため、本文には隠喩も詩的表現も含みません。代わりに多大なネタバレ成分があるためご注意ください。説明文らしく、シリアスに淡々と進めます。

 

 世界観を読み解く補助線として元ネタなどの背景知識を入れているので、そもそも通常想定されている読者と違う立場から読むことになります。そのため、作品としての評価をどうこうするつもりはありません。*1 博麗神主の立場や真意を読み解こうとするものでもなければ、儚月抄の絶対的な正しい理解を示そうとするものでもありません。あくまで真実は雲の中であり、意味があるのは結論よりも過程の積み上げです。たとえ無数の理解の一つであろうと、事象は確率的に出来ているために海と山も繋げられると言う人もいます(永琳・豊姫)。この文章は、可能な理解を試みる人の叩き台として、一つの世界観を示します。

 

 

 基本的には、作品の構成にみられる意図と直感の言語化が中心です。書かれていることからの理解が中心ですので、部分部分は目新しくないことを述べるにとどまるかもしれません。それで意味不明な点が生じるならば、書き手の力量不足のためです。また文脈をふまえて厳密に読んでも、見方の分かれる点が生じるのはやむを得ません。文化の日を前にして最終的な構想が固まったため、文化色が出過ぎたきらいもあります。納得のいかないところ、わかりにくいところは弾幕がきたと思って華麗に回避することを推奨します。(たぶん後半になるほど増えます。それでもルートとしては、意味不明な部分は雰囲気だけとらえて回避して、頭から最後まで順に行くのがオススメです。)

 それでは、眠っている世界の話をしましょう。

 

 

 以下で取り上げるのは漫画版と小説版です。

東方Project』は上海アリス幻樂団の著作物であり、漫画版『東方儚月抄 Silent Sinner in Blue.』はZUN氏と秋★枝氏、小説版『東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate.』はZUN氏の著作物です(ともに一迅社より)。

 話の展開を裏付けるには本文に照らしていただくのが一番有効と考えたため、その目的上必要とみられる範囲で注などで本文を引用しています。引用の際には、話数の前に漫画版はS(Silent Sinnerより)、小説版はL(Lunatic Runagateより)と略記します。太字強調はすべて引用者によるものです。小説版については単行本化されたものを検討の対象としています。

 

 

 小説版巻頭言は、次のような警句を述べます。

 “考える葦が考えることを止めたのならば、地上は確かに穢れの少ない草原になるだろう。月の民はそれを願うのか。”

 ここで登場する三つの要素は、どのように世界観を特徴づけているのでしょうか。儚月抄と先立つ永夜抄を振り返ると、二重の異変(永夜抄)、二重の囮、二つの封書、二つの望郷など、対となる二要素からなる構成が多くみられます。儚月抄を支える価値観にも同じことが言え、簡単には解決しない二項対立を世界観の中でどう調整するかという点がポイントとなります。

  Ⅰ. 考える葦とその相手

  Ⅱ. 地上の民と穢れの少ない草原

  Ⅲ. 願いについて

 

 

 項目Ⅰは漫画版の引用が多くなるのに対して、項目Ⅱでは小説版の引用が多くなります。言い換えるとこれら二項目が各作品の主題をおおむね反映するものです。小説版を取り上げるにあたっては、個々のストーリーの中にも全体を貫く価値観が表れているという想定の下でみていきます。*2

 ただし、小説版は各登場人物の主観から書かれているため、どの程度全体のテーマに関する記述としてそのまま受け止めてよいかは問題です。

 語り手の基本的な特徴は次の通りです。

  月出身の者=L第一話、第二話、第三話、第六話、最終話冒頭部分

  地上出身の者=L第四話、第五話、第七話、最終話中盤以降

 このバイアスを考慮した上で、複数の人物が共通したスタンスを示しているものが全体の価値観に関わる可能性が高いとみていきます。

*1:単に擁護を目指すものではありません。むしろ残念ながら、儚月抄は新たな不幸を背負っただけかもしれません。その理由はおいおいわかります。善悪でいえば秩序を覆す悪、異変か異変解決かでいえば、当然、異変だからです。ある種の人々からみれば、黒歴史を追う別の動機が見つかるでしょう。正邪はそれを代償と呼びます。幻想郷の異変は、何かのきっかけになってもよいし、ならなくてもよいものです。最大の意義は直接の結果から離れたところにあるからです。

*2:個々のストーリーは独立性の高い小さな物語群にとどまる、あるいは独白や掛け合いには風流さと皮肉の応酬以上に特に意味はないという理解も当然ありえます。しかし、それとは異なる読み方の可能性を示すことが、この文章の狙いです。