Ⅱ-ⅰ.地上の民と穢れの少ない草原 : 生物の進化と文明の歴史vs.穢れの概念

A. 死を内包する理想と死を忌避する理想の折衷 ― 吞んべぇのレムリア(retro ver.)*1

 

視点2:死を内包する地上の生命観・歴史観と、死を忌避する月の死生観を折衷する

要約:儚月抄の世界観にとっては、多様な生物の間の生存競争がもたらした生命の歴史・文明の栄枯盛衰も、神道由来の穢れの概念(=生きることが死を招くことや、生きるために競争しなければならないことを穢れととらえる価値観)も、どちらも重いものなので、片方の理想を放棄することはない。だとすれば、自然の摂理にも死の忌避にも反しない社会、たとえば弱肉強食の形式は維持しつつ人妖が共存する社会、が理想郷となる。

 

歴史観と死生観の抵触

 寿命のない月の民は生きることと死ぬことを穢れとみて、地上の民を穢れた存在とみなします。たしかに、人間をはじめ地上の存在は、いつか死ぬ運命から逃れることができません。

 それならば、人の世界、地上にとっての理想は、穢れた物の存在を決して認めない月の都のあり方に近づくように*2  、穢れを生む原因(競争や戦争など)を少しでも遠ざけていくことでしょうか? この立場も、不死の追求から平和主義まで、古今東西みられる一つの解決です。

 しかし、それだけでは済まない事情があります。月の民は競争の二面性を認識しており、地上の人間の歴史と成長は、全て戦争の歴史と成長であり*3 生命の歴史は戦いの歴史だ *4 と回想します。月の民のように死を忌避する考え方を徹底すると、これらの歴史も蔑視することになるはずです。

 生物や文明の多様性の中での競争を否定すれば、地上は文明も様々な生物も発達しない、ただの草原が理想となってしまいます(L巻頭言)。それを示すように、穢れに満ちた地球の海は生命発祥の地でもありましたが、穢れのない月の海は生物の棲めない海でした。*5

 ここで鼎の軽重を問われているのは二つの考え方です。一つは、自然淘汰と種の変化が地上の生命の歴史であるとする、進化論や自然選択説的な認識です。もう一つは、巻頭言に含まれる皮肉の裏返しとしての、穢れゆえに多様性のある生命豊かな地上があるという見方です。こちらを基礎づけるのは群集生態学的な観点であり、競争関係をはじめとする生物の相互関係が多様な生態系を生み、活性化させるというものです。

 

□価値観の均衡点

 生物の多様性がもたらす功罪両面を直視したとき、問題はここに生じるジレンマをどう解決するかです。作中の表現で言い換えると、争い事がなければ何も成長しない、生物の歴史は競争と自然淘汰の積み重ねだという視点を持ったとき、その他方で、穢れの感覚=生が死を招くことを忌む感覚 をどうしたらよいのか。こうして生存競争や文明抗争の必要性を肯定する歴史観に、神道由来の宗教的観点を足してみると、両者のいいとこどりができたら理想じゃないか、という発想が生まれます。

 幻想郷は、それを多かれ少なかれ、弱肉強食関係(捕食-被食関係)にあるはずの人妖の共存相利共生)という形で実現しました。幻想郷という地上に接した月の民と月の兎は、人間と妖怪が協力している様*6 、妖怪と人間が対等に暮らし、古い物も新しい物も入り交じった世界であること*7 、地上では妖怪と人間は共存しているのではないかという印象を挙げ*8 、そのことを感じ取ります。

 

 幻想郷に接した月の者が、人妖の共存という点で地上への評価を肯定的に変えたということは、 “考える葦が考えることを止めたのならば、地上は確かに穢れの少ない草原になるだろう。月の民はそれを願うのか。”という問いの答えが出たともいえます。生きることは競争を伴い生存競争は弱肉強食の死を招くという、穢れをもたらす因果連鎖について、月の民は生きることと競争からして否定します。それに対して、幻想郷は捕食関係を共生関係に転換するという異なる方法により、弱肉強食の死を回避しています。それなら意外と地上っていいじゃん、というのが彼らの示した理解でした。*9

 

□理想郷はどこに

 ここで付け加えると、月の民の理想=幻想郷 というわけではありません。月の民の理想もただの草原ではないものの、“生も死も無い世界が限りなく美しい。だが何も無い世界が理想というのとも違う。生きる為に他人から搾取したりせず、自分達が生み出した物だけで全ての者の生活が賄える世界が理想なのだと言う。”(L第六話、p130)という依姫からレイセンへの教えにあるように、生も死も無い世界で、自己完結した自給自足を営むこととされています。これは桃源郷のイメージに通じる、変化のないことに価値をおく世界ならではの理想です。小説版における輝夜霊夢への言葉にも変化のない暮らしが理想として語られています。*10 

 儚月抄における幻想郷は、月の純粋な理想よりは現世的な志向を持つものと位置づけられているようです。その表れとして、霊夢は先の輝夜の言葉を「もっと豪華で派手な暮らしを望むと思う」と退けます(L最終話、p183)。幻想郷の形成に参加した地上の妖怪も“衰退か極楽浄土か。どちらにしても私は嫌である。私には都会の喧噪が必要なのだ。そう思うと、この静かな月の何処かで吸血鬼達が騒いでいると思うと何だか懐かしく思えた。”と述べています(L第五話、p116)。

 衰退や浄土でなく都会を求めるにしても、外の現代社会と区別すべくひと工夫必要です。宗教的死生観といった伝統的価値観は精神的な奥深さの一つの具体例ですが、現代社会はむしろ唯物文明的に、科学や技術を手段として物質的な豊かさを満たす方向に発展している面があるからです*11。そこで独自の立ち位置を得るのが、近代的価値観の要請する競争やバランスを保ちつつ、伝統的価値観と折衷した場所としての幻想郷です。月面戦争で酒を盗みだしたのがなぜかを思えば、一つの理由は、月の都が物質的な豊かさより精神的な豊かさを重視することによるのでしょう。ここでは、酒もまた精神的な豊かさの具体例です。それゆえに、幻想郷=地上+精神的豊かさ=呑んべぇのレムリアといえます。

 

 ちょっと昔の人が、こんなことを言っています。由来としてではありませんが、視点2にちょうどよく当てはまると思えるため、引用します。

“『悲しき熱帯』を書きながら、人類を脅かす二つの(わざわい)──自らの根源を忘れてしまうこと、自らの増殖で破滅すること──を前にしての不安を表明してから、やがて半世紀になろうとしています。おそらくすべての国のなかで日本だけが、過去への忠実と、科学と技術がもたらした変革のはざまで、これまである種の均衡を見出すのに成功してきました。このことは多分何よりも、日本が近代に入ったのは「復古」によってであり、例えばフランスのように「革命」によってではなかったという事実に、負っているのでしょう。そのため伝統的諸価値は破壊を免れたのです。しかしそれは同時に、日本の人々、開かれた精神を長いあいだ保ってきた、それでいて西洋流の批判の精神と組織の精神には染まらなかった日本の人々に、負っています。この二つの精神に自己撞着した過剰が、西洋文明を蝕んできたのですから。” (クロード・レヴィ=ストロース『月の裏側―日本文化への視角―』[知られざる東京]p128、中央公論新社、2014。初出は『悲しき熱帯Ⅰ』中公クラシックス版序文、2000)

*1:レムリアとは、5000万年以上前のインド洋に位置して、現在のインドの南部、マダガスカル島マレー半島が合わさった仮想の大陸です。人類発祥の地と考えられていました。

*2:L第三話、p54、豊姫 ”月の都は完成された高度な都市であった。物質的、技術的な豊かさはとうの昔に満たされており、精神的な豊かさを高めることが最も重要であるとされていた。(中略)ただ、それを実現する為に必要な事は、穢れた物の存在を決して認めないことだった。”

*3: L第二話、p39、輝夜 “だが、地上に存在するものは必ず壊れる。盛者必衰、力あるものもいずれ必ず衰え滅びる。その時、この優曇華の玉の枝は奪い合いの対象となるのだ。そして地上の世の平和は乱れ、戦乱の世へと変化する。つまり優曇華は、月の民が地上に争乱をもたらす為にも利用されている植物である。何故争乱をもたらす必要があったのかは、人間の歴史を見れば容易に判る。人間の歴史と成長は、全て戦争の歴史と成長なのだから。争い事がなければ何も成長しない。現状に満足した時点で人間は生きるのを諦めてしまうだろう。月の民は地上の民の事を思って、日々暮らしているのだ。地上の民の歴史は月の民が作っていた事に他ならない。” (注*―この引用部分は地上の世界観一般について述べています。幻想郷の世界観としては、伝統的価値観との折衷を経るため、最終的に単純な発達史観ないし社会進化論をそのままとるわけではありません。)

*4:L第三話、p56、豊姫 “私は海を見ると昔を想像してしまう。海で生まれた生命は、生き残りを賭けた長い戦いの末に海は穢れ、そして勝者だけが穢れ無き地上に進出した。陸上ではさらに壮絶な生き残りを賭けた戦いが繰り広げられた。ある者は肉体を強化し弱者を食料にした。またある者は数を増やし食べられながらも子孫を残した。陸上を離れ空に穢れの無い世界を求める者も居た。敵う者は殆ど居なくなったが順応性を失い絶滅した者も居た。地上を諦め再び海に戻る者も居た。勝者はほんの僅かであり、数多くの者は戦いに敗れ絶滅した。生命の歴史は戦いの歴史である。常に勝者を中心に歴史は進む。そんな血塗られた世界だから地上は穢れる一方だった。生き物は本来いつまでも生きる事が出来るのだが、穢れが生き物に寿命を与えた。生命の寿命は短くなる一方だった。”

*5:L第三話、p52、豊姫 “地上の生命は海から生まれたという。気が遠くなる程の長い時間、生き残りを賭けた生命戦争が繰り広げられた。他を圧倒する為に体を大きくする生物、酸素を利用して素早く動く生物、新天地を求め地上へと進出する生物、地上から空を目指す生物……様々な形の勝者が現れ始めた。海は生命の源であり最大の戦場でもあったのだ。そんな歴戦の勝者である海の生物に穢れが無い筈も無い。だが月の都には穢れのある者は殆どいない。だから目の前の海には何の生物も棲んではいないのだ。如何なる海の生物も月に移り住む事は適わなかったのである。そう、この海は何一つ穢れていない、ただ一点だけ、水面に映っている青い星の場所を除いて——。” 

*6:L第二話、p30、輝夜 “あの二、三年ほど前の地上の民による襲撃事件があってから、私は永遠亭に永遠の魔法をかけるのを止めた。何故なら、人間と妖怪が協力している様を見て、酷く羨ましく思ったのだ。永遠に月の都からの使者に怯えて暮らす自分が馬鹿馬鹿しく感じた。永遠の魔法とは、一切の歴史の進行を止め、穢れを知らずに変化を拒む魔法である。生き物は成長を止め、食べ物はいつまでも腐らず、割れ物を落としても割れることはない。覆水も盆に返る。私は月の民である自覚から地上の穢れを恐れ、この魔法を建物全体にかけていたのだが、地上の民の魅力を目の当たりにし、自らその魔法を解いたのだ。”

*7:L第二話、p34 輝夜 “ここ幻想郷はとても不思議な土地であった。妖怪と人間が対等に暮らし、古い物も新しい物も入り交じった世界。そこに月の民と月の都の最新技術が混じったところで、誰も驚かないのだろう。自らを高貴な者だと言っても笑われるだけである。何とも幻想郷は居心地の良い土地だった。何故なら、わざわざ隠れ住まなくても目立つ事がないのだから。”

*8:L第六話、p130、レイセン “最初に介抱してくれた巫女は、私の事を妖怪兎だと呼んでいた。妖怪とは人間を捕食する怪異の産物だと聞いている。それなのに地上の人間は妖怪でも介抱してくれるものなのかと感心した。穢れの多い地上の生き物なのだから、自分の命を脅かす妖怪が弱った姿で現れたら、その場で始末するものだと思っていた。その後、月の羽衣を奪われそうになったが……。それどころかその巫女は別の妖怪と行動を共にし、月に攻め込んできた。もしかしたら、月の都に伝わる地上と現状の地上では、何か大きな差異があるのではないか。地上では妖怪と人間は共存しているのではないか、そんな気がした。しかも、月に攻めてきた吸血鬼部隊。一見リーダーは吸血鬼なのだが、見た感じあの部隊を操っているのは巫女である。つまり人間が神を呼び出し、妖怪を支配していると考えられる。月の都が考えている地上のパワーバランスの地図を書き換える必要があるのかも知れない。”

*9:理解を示したのは、あくまで生存競争のもたらす弱肉強食の死(穢れの中核をなすもの)を回避する工夫についてであることに注意する必要があります。依然として地上の民は、寿命を背負い、いつか死ぬ定めの存在です。つまり、視点2で問題にした死と視点3で問題にする死は別物です。L最終話の輝夜の「生死が日常の幻想郷」というフレーズは一見紛らわしいものですが、文脈をみると後者の問題であることがわかります。

*10:L最終話、p183、輝夜 “「気温は一定で腐ることのない木の家に住み、自然に恵まれ、一定の仕事をして静かに将棋を指す……、遠い未来、もし人間の技術が進歩したらそういう生活を望むんじゃなくて?」”

*11:設定が生きていれば妖々夢マニュアル「幻想郷風土記」など。ほかに、S第三話・上巻p58 “レミリア「それって何? 山の天狗や河童には負けたくないってこと? 馬鹿みたい」” このくだりの発言は、外の世界や天狗の社会に張り合うことを評価せず、妖怪の生活の独自性を重視する立場を示しています。他方で、自身がしなやかな強さのような普遍的価値を提示していることは先にみました。文化人類学の文脈でいえば、文化相対主義+野生の思考に似たものがあります(その意味はまた後で出てきたり出てこなかったり。)