Ⅱ-ⅲ .地上の民と穢れの少ない草原 : 個の視点vs.社会の視点

C. 平衡状態を保つ方法

視点2と視点3の接続:個の視点vs.社会の視点

要約:理想郷が生物多様性のバランスを活かすためには、人妖はそれぞれの役割を果たす必要がある。この点で、社会に参加することは互いに義務を果たすことで環境をつくり出すことでもある。同時に本分を全うすることは、個人の「生きること」を意味づける(たとえば妖怪が存在意義を保つ)一つの方法となる。

 

□逃げられないもの

 Lunatic Runagateをそのまま訳すと月の逃亡者という意味合いになります。前項は「死なないこと」がある意味で背理法の起点でした。次のキーワードは「逃げること」です。

 儚月抄で新しく設定された逃亡者が、月の兎レイセンです。永琳の書いた封書とレイセンの書いた封書は賢者の封書と愚者の封書として対比されており、レイセンが自らを愚かと振り返る理由は、本人の回想で示されています。*1 そこで出てくるのは、環境のせいにして逃げ出し、後になって逃げ出した環境のよさを思い、重ねて懐かしむ心情です。単なる後悔以上に、輝夜霊夢に一種の理想として例に出した”一定の仕事をして、静かに将棋を指す”ような暮らし(L最終話、p183)に通じることからも、餅つき兎としての暮らしは悪くなかったのかもしれません。

 同様に輝夜の心情にも、地上に来て初めてわかったこととして、月で感じていた退屈さと窮屈さは、何事も環境のせいにする自分の心が原因であったとの記述があります。*2 輝夜にとっても、月から地上に場所を変えることは退屈さの解決にならなかったわけです。

 儚月抄において、逃走すること、環境のせいにする心は見るからに肯定的に評価されていませんが、それはなぜでしょうか。

 一つの理由は、先にみた自ら生を意味づけていく精神のありように反するから、です。先立つのは自らの心であり、環境のせいにするのは霊夢風にいえば心が腐っているからです。レイセンの”そう、やれば出来るがやるチャンスが無いと思っている輩は、チャンスが来ても出来ない。チャンスを呼び寄せる力も無いのだろう。”(L第六話、p123)という感想も同じ文脈で捉えることが出来ます。

 また輝夜は働くことについて”地上の民は自分の働き以上の見返りは期待してはいけない。必ず不幸になるからである。”と思うがまだ実践できていない *3 と振り返りました。月の兎は地上の民と同様に月の民の道具的存在であることから、この価値観が月の兎にもあてはまり、レイセンにおいて表れていると見ることもできます。

 こうした人によっては五月雨式説教ともみるものは、そのまま鵜呑みにすることより、世界観全体の中に位置づけることが重要です。しかしそろそろ読むのが面倒になった人は、ここで次の項にうつることを推奨します。以下の内容については、読解を越えて若干深入りするためです。

 

□個の視点vs.社会の視点

 レイセンが逃げ出した状況には簡単ではない問題があります。何千年も進展がなく、無意味と感じられる労働です。変化のない社会といえども、心のありようとはかくも無意味な労働まで耐えなければならないものでしょうか。それは人間よりもむしろ道具になるように仕向ける思考とすら思えます。あるいは”月の都でも月の民にとっては、兎達はただの道具でしかないのだから当然と言えば当然”(L第二話、p32)であって、市民と奴隷の描写を通した月の都への皮肉でしょうか。しかし、月の民であった輝夜も環境のせいにする心を自省していることから、道具は道具らしくという話以上のものがあるようです。

 環境のせいにするのが誤りである本当の理由は何でしょうか?

 

 ここでは逃走への評価を裏からみて、義務の位置づけを考えます。

 永琳と紫は地上の人間や妖怪の義務について述べます。

 永琳は医者を開業した理由について、「これからは地上の民として暮らすのですから、地上の民の勤めを怠ってはいけません。お互い他人の為に働く事が地上の民の勤めなのです」と輝夜に説明します(L第二話、p48) 

 紫は幻想郷の人間の義務として、外の人間と同様の学ぶ事、働く事、社会に参加することつまり納税することを挙げ(「月の都から新しい幻想郷の住人が現れたのよ? それなりのお返しを頂かないと。そう、住民税みたいなもんね」(L第五話、p105))、加えて妖怪との付き合い方の義務を挙げます。いわく、[ 幻想郷の人間は常に妖怪に襲われる危険があるが、その恐怖を甘んじて受けなければならない。人間は妖怪に対する恐怖を完全には拭わない。] この義務には妖怪の義務が対応しています。[ 妖怪は人を襲うことで存在意義が維持できるのであって、妖怪は人間を襲うが無闇に食べたりはしない。そして、幻想郷のシステムを維持し、幻想郷に住む者の生活を支えるのは妖怪の義務である。]

 

 二人とも義務を重視する感覚の持ち主です。しかし、なぜ義務は守るべきなのでしょうか。その観点から共通点を取り出すと、特徴的な考えが示されていることに気付きます。地上の民の社会も、人妖の共存の機能する仕組みも、相互に義務を満たすこととしてイメージされていることです。

 このことを説明する理屈はいくつか考えられます。

 

相利共生

 まず、視点2でも取り上げた群集生態学の、個体同士が相互の利益となるように行動して共生するという、相利共生の視点です。相手から利益が返ってくるとの予測の下にとる相互的な利他行動をさして、互恵的利他行動と表現されることもあります。*4

 相利共生の考え方は、人妖が共存する地上のあり方の具体的説明になります。幻想郷を結界によって隔離された一つの生態系として捉えると、妖怪と人間のどちらが増えすぎても減りすぎても生態系を維持することができません。妖怪か人間が絶滅しないためには、何らかの平衡状態に達する必要があります(人間と妖怪の力の均衡の重要性)。この平衡状態を人間と妖怪の相利共生という、互いを必要とするバランスの中で達成しようという考え方です(『東方求聞口授』 第二部対談p46、[生物多様性のバランス] ”「幻想郷はお前らに言わせたら、人間は弱いけど生かされているんだろ? それは自然淘汰に逆らっていないのか?」「逆らっていないですね。人間が居なくなるという事が、妖怪にとっては致命的ですから。そういう意味では、生物学的に弱い事が自然淘汰される理由、という訳ではないのでしょう。」「ふむ。弱者を生かす事も勝者にとって必要だという訳だな。」”)。逃走は相互関係と平衡状態を崩すものとして非難に値すると考える余地があります。 

 ただし、厳密にみれば、いくつかの限界も抱えています。まず、メリットがあるゆえに互恵的な行動を選択するという考え方(功利主義的な理由付け)であることが説明に限界をもたらします。同様に、人間が関わる社会制度特有の意味合い、たとえば儀式的、儀礼的、呪術的側面といったものも説明することができません。加えて、相利共生は長期的なつながりを前提とするものであり、一回限りの行動を説明できないという限界もあります。

 

 レイセンの置かれていた環境は、説明できないケースにあてはまってしまうようです。餅つき兎が餅をつく、実際には薬をこねるというのは、”我々月の兎は自分に何の利点もない餅搗きを毎日やらされていたのだ。しかもいつ終わるとも判らないのである。””もう周りの仲間にとっても餅搗きはただの意味のないルーチンワークと化していた。”といいます。捕らえられている嫦娥の贖罪の為というのは月の兎自身にとってメリットがあると感じられておらず、相利共生を崩すから逃走はダメという理屈では非難するのが難しくなります。

 

□合意によるルール

 次に、皆の最低限の自由を確保する為には、ある程度の決まりのようなものが必要となる、それが少なからず不自由を生むが、皆の自由の為には不自由に耐えて義務を果たすことも必要であるという考え方です(注5)。ルールなしで放っておくと皆の最低限の自由を守れない問題が生じるから(自然状態と生存の問題)、皆でルールを決めて回避しよう(社会契約)といった考え方です(自由主義的な理由づけによる権力の正当化)。

 これも幻想郷の人妖の共存をどう作り出したかの説明になります。

 しかしこの考え方は、月の兎にはあてはまりません。月の兎は月の民の道具的存在であって月の都にいる限りそもそも自由ではなく、逃走した方が遙かに得られる自由が大きいからです。レイセンも、”だから、私は逃げ出した。兎にだってもっと自由があってしかるべきだと。”(L第六話、p122)と振り返ります。ルール形成の仕方についても、そもそも月の兎は月の民との圧倒的な上下差別におかれる環境を合意してそうなったのか、非常に疑問です。それでも単に皆のルールだから守るべしというのは、自由なんてないと表現を変えて言っているに過ぎません。

 

□交換による社会形成

 このように見てくると、レイセンの逃走の否定的評価の裏には、義務を果たすことについて、なかなかにとがった考え方があることがわかります。

 ”環境のせいにしない””自分の働き以上の見返りを期待しない”ことをひっくり返すと、まず自分から与えよ、という考え方になります。

 そこで最後に世界観の説明になるものとして持ち出すのは、相互に何かを与える贈与(互酬性贈与)=交換 を社会形成の基礎とみる考え方です(「贈与論」)。*5 義務を果たすことを、義務の交換という文脈で捉えます。

 

 交換は与えること、受け取ること、返すことの3つの要素からなります。近代以前の社会では、人々と集団が相互にあらゆるものを交換し合う、全体的な給付の体系によって経済・法体系を作る例が多くあったとされます。

 物を受け取るということ、権利義務をやりとりすることは、様々な点で物を贈る側と贈られる側とに縛りを課し、両者を結びつけるものです。また賽銭が金銭以上の意味を持つものであるように、贈られる物は物以上に霊的な意味や社会的関係性の意味を持つことがあります。そこでこれらの社会にあっては、贈り贈られることが、事物に表された魂や霊的なものをやりとりし、呪術的、宗教的、倫理的あるいは法的に、社会的な関係を構築する手段となります。反面、贈与しないこと、贈与されて受け取らないこと、返さないことへの否定的評価として下されるのは、体面を失い、魂を失い、指導力や呪術的霊力を失うことです。それは社会的な交流や経済の流通を止め、饗宴や呪術的、アニミズム的な儀礼、儀式を止めることでもあるからです。こうしてこれらの社会においては、与え、受け取り、返すことは、集団や個々人にとって事実上の義務として観念されるようになります。

 これらのやりとりにあっては、何を贈るかは社会的立場や役割、集団の関係性を反映します。つまり贈与と贈与者と贈与物は、それぞれが密接な関係にある関係項です。たとえば、首長やシャーマン、巫女のような役職者が贈る護符、銅製品、霊、呪術的サービスといったものは、互いに同じ機能を備えています。より一般化すると、物を与え、物を返すのは、挨拶と同じく“人が互いに「敬意」を与え合い、「敬意」を返し合うから”であり、同時にそれは、”何かを与えることにおいて、人が自分自身を与えているからでもある。そして、人が自分自身を与えるのは、人が自分自身を(自分という人を、そしてまた自分の財を)他の人々に「負っている」からなのだ”といわれます(前掲注5・p295)。したがって交換は社会分業としての性格も帯びます。人間の贈与は人間の本分を果たすことであり、妖怪の贈与は妖怪の本分を果たすことであって、それが逆転してはならないわけです。

 

 交換に様々な意義を見て、社会関係を形成し安定化する手段ととらえると、倫理的な義務や市民意識の原型が導かれます。これが、先の逃走を否定的に評価することになります。環境のせいにすることは、環境や社会というものがまずあってそこから何かを受け取ることを期待する考え方であり、与えることが環境を作り出すとみるのと真逆の考え方であるからです。 

 また、損得勘定にもとづいた有用物の生産と交換とは異なり、個々の行為、贈与物自体の有用性は必ずしも必要ではありません。相互性のある交換全体の中で、社会関係を形成するものとして様々に意味が付与されていくためです。交換の動機となるのは、純粋に自発的で、見返りを求めない給付という観念でもなく、純粋な損得勘定にもとづいた有用物の生産と交換という観念でもなく、これらが混ざり合った混合物です。

 

 この見方は地上も月もカバーすることができます。レイセンの例では、意義も利益も感じられないなら、もはや労働は贈与とすらいえます。しかし贈与には様々な形のパワーバランスを生み出し、相互に行うことで社会を形成する機能があります。また主体性を取り戻す方法として、与える存在として自分を捉える贈与の視点があります。贈与論の枠組みにならえば、相互性の中でやがてやりとりされていくものは相互的尊敬です。義務にしても、むしろ積極的に負いにいくことでその正当化に近づくという、奇妙な逆説があるのかもしれません。*6

 レイセンが逃げ出したのは義務からのようであって、その実、餅を搗いて歌を歌って暮らす日々、義務の付帯したコミュニティーそのものからでした。輝夜の場合は、地上のコミュニティーへの順応の過程として、いかなる形であれ、何か義務を負うことに変化の兆しを感じています。*7

 

 いずれにせよ、ここで導入しておきたい視点は、一見すると単独でただ何かを負う行為も、交換のような相互性のあるやりとりを介せば社会形成の基礎になる、ということでした。

 儚月抄の世界観を振り返ると、生物の多様性が活性化につながるという社会の視点(視点2)と、生きることを意味づけることという個の視点(視点3)は、互いに義務を果たすことで環境をつくり出す、個から社会へというベクトルの思考でつながっています(視点2と視点3の接続)。

 

*1:L第六話、p120 “そもそも、何故私がこんな殺伐とした戦いの前線にいるのだろう。私は元々歌を歌い、餅を搗いて毎日暮らしていた。退屈だが平和な毎日だった。昼間は餅を搗き続け、夜はお酒を呑みながら将棋をしたりしていた。あの頃が懐かしい。” p122 ”今から思えば、自分は高い能力を持っているが環境がそうさせないと思っている者は、大抵何も出来ない奴である。私は典型的な愚か者だったのだろう。愚かな私は建設的な仕事じゃなければ、逃げ出す事の方が善だと自分に言い聞かせていた。自分を上手く使えない社会の方が間違っているんだと考えていた。勿論、逃げ出している間、心の平穏を保つ為の言い訳である。” p134 ”ただ餅を搗いて歌を歌って暮らしていた数ヶ月前のあの頃が懐かしい。”

*2:L第二話、p38 “月の都にいた頃も同様に、やる事が何も無かった気がする。退屈さ故に地上に憧れたものだったが、地上に降りてきて初めて判った。やる事がないのは月の都や地上など環境に関係なく、私自身の問題だと。何事も環境の所為にする心が退屈さと窮屈さを生むという事を。”

*3:L第二話、p48 ”地上の民は自分の働き以上の見返りは期待してはいけない。必ず不幸になるからである。ただ、理解できるのだがまだ実践できていない。私に限らず、幻想郷にはその地上の民の勤めを果たしていない者が多い気がする。そんな悩みを永琳に打ち明けると「輝夜は自分のやりたい事だけすればいいのよ。もしやりたい事がなければ、やりたい事を探す事を仕事にしなさい」とはぐらかされる。”

*4:似て非なるものとして、『東方求聞口授』第二部対談では、外の世界での仕事観は他人の利益の為に働く事が仕事の充実という内容に変化していく、つまり利他行至上主義(他人に尽す事が美徳で、充実した生活を送るのに必須という考え)に行き着くというやりとりがあり、神奈子・白蓮・神子が賛同しています(p39)。

*5:マルセル・モース『贈与論ほか二編』「贈与論-アルカイックな社会における交換の形態と理由」p409、岩波書店、2014 “わたしが全体的給付の(クラン間でおこなわれる全体的給付の)体系と呼ぶことを提唱している体系がある。この体系においては、人々と集団が相互にあらゆるものを交換し合う。この全体的給付の体系は、わたしたちが互いに確認しうる限りで、そしてまたわたしたちが想像しうる限りで、もっとも古い経済・法体系をなしている。これが基礎となって、その下地の上に交換=贈与の倫理が浮き彫りになってきたのである。そしてこの体系こそ、その規模に違いがあるとはいえ、わたしたちの諸社会がこちらに進んでほしいとわたしが思えるような経済・法体系と、まったくもって同じタイプの体系なのである。(中略)人類進化の端から端まで一貫して、英知の教えは一貫している。これまでも行動原理であり続けてきたもの、そして、これからもずっとそうであり続けるであろうものが、あるのだ。わたしたちの生活原理としても、だからこの行動原理を取り入れようではないか。自分のそとに出ること。つまり与えること。それも、みずから進んでそうするとともに、義務としてそうすること。そうすれば過つ恐れはない。”

*6:ちなみに、この奇妙なノリや話の展開が一体何を意味するのかは、東方求聞口授が影響を受けている、なんとかの話をしよう本の第九章以下を見るとわかります。

*7:L第二話、p38 “だから私は退屈な日々を打ち破る第一歩として、盆栽を愛でることを仕事にした。それだけだが、毎日やらなければならない事があるだけで気分は大分変わるものである。” p48 ”今はまだ、地上の民として自分がやるべき仕事は見つかっていないが、優曇華の花が咲く頃には何かを始めている筈である。むしろ、何かやりたい事を見つけた時に花が咲くのかも知れないと思った。”