Ⅱ-iv.地上の民と穢れの少ない草原 : まとめ

D. 永琳と月の酒

 

 毒を渡すもっとも良い方法は贈り物にすることです。物語の酒宴において酒にどんな意図が込められているかは、飲んでみるまでわかりません。*1

 紫いわく“「失礼ね。毒なんて入ってないわ」これはどうやら紫のギャグらしい。”(p182)

 永琳が酒宴で得たものは贈り物だったのか毒だったのか。L最終話では「死ぬことのない者に与える、生きることを意味する悩み。正体の判らない者*2 への恐怖」という表現があります。なぜここで、正体が判らない者への恐怖、生きることを意味する悩みという目新しい組み合わせが並んだのでしょうか?それは言葉遊びや詩的表現もさることながら、ここまで見てきたような、小説版の底流を流れてきたテーマの合流点であるからと考えられます。

 A.+C. 月の酒は住民税であって、それによって抱いた正体のわからない者への恐怖は、死を伴わない人妖の生存競争の産物である。妖怪を恐れない賢者は、妖怪との付き合い方の義務を果たす。B. 死ぬことのない者=それだけでは生きても死んでもいない者 が、地上の住民の証=生きることを意味する悩みを得る。

 このようにAからCまでで見てきた観点が反映されています。幻想郷の力の均衡の観点からは、望郷の思いに応える贈り物の皮を被った毒、つまり牽制としての意味はもちろん重要です。それに加え、幻想郷の住民の相互性という観点からすると義務を果たした住民資格承認の瞬間でもあります。儚月抄の酒オチは、競争の肯定、穢れの忌避、死なない者との共生、幻想郷の住民の義務といった観点で構成されています。

 永遠亭のメンバーは、形式的には永夜抄が終わった時点で地上の住民の位置についていました。しかしそれだけではまだ足りないということを示唆するのがL第五話の藍と紫の会話です。*3  住民であることのもう一段上に、相互関係に入って社会に参加するという段階があります。永琳が人間社会の相互性に入ったのは医者を開業した時点、妖怪と人間(元宇宙人含む)の相互関係に入ったのが儚月抄の酒宴の時点と考えられます。

 

 

*1:先に引用したモースはこのようなことも言っています。『贈与論ほか二編』「ギフト、ギフト」p43“こうした諸概念の連鎖はゲルマン系の諸法・諸言語ではことのほか明確である。だから、どうしてそこでギフトという語彙に二つの意味が組み入れられるのかが容易に見て取れる。実際、古代ゲルマン人と古代スカンジナビア人にあって給付の典型は何かといえば、それは飲み物の贈与、ビールの贈与だったのである。ドイツ語でこれぞ贈り物といえるものは、注がれるものにほかならない。(中略)この種の作法においては、贈与はもっぱら飲み物をみんなで一緒に飲むとか、酒宴を奢るとか、お返しの酒宴を開くとかいったかたちでなされるわけだけれども、こうしたときほど、贈り物が善意にもとづくのか悪意にもとづくのかの見きわめがつかなくなる場合はほかにないということ、これである。贈り物が飲み物である場合、それは毒であることもありうる。もちろん、陰惨な悲劇の場合は別として、原則としてその飲み物が毒であることなどない。けれども、それが毒になりうる可能性はつねにある。いずれにしても、贈り物としての飲み物はつねに呪力をもつものである(英語のギフトという語にはこの意味合いが残っていた。)。その呪力によって、その飲み物を分かち合った者たちは永遠に結び合わされることになるとともに、そのうち誰かが道義にもとることをしようものなら、その人にはつねにその呪力が逆に跳ね返りうることとなる。贈り物としてのギフトと、毒としてのギフトを結びつける意味上の類縁関係は、したがって説明が容易であるし、自然な関係なのだ。”

*2:口授には次のような記述があります。p41 “[本来の意味での妖怪の正体とは] 魔理沙妖怪の正体とは?」神子「人間が正体不明な物に怯えたり、畏れたりする心ですよ。それが妖怪や神を生む。(中略)最近になって人間がそう考え始めた訳では無く、昔からそう考えていた人間も居た、という話です。」”

*3:L第五話、p106「人間の義務……ですか。そう言われてみればそんな気もしますね。あの者達は妖怪を恐れないし、それどころか人間の力を強めパワーバランスを崩しかねない。ですがそれと今回の月侵略計画は何の繋がりが……」「さっき言ったでしょう? 私は住民税が欲しいと。人間の力を強めるといっても、怪我や病気を治したり、人間の護衛に付く程度ならなんて事もない。それよりは、納税の義務を果たして貰わないと、社会には参加できていない」”