Ⅲ.

D. 付録

 

 最後にいくつかの仮説を出して終わります。考えは生き物のように変わります。いずれ削除する予定の、暫定的なものです。(反応をみると消すに消せない2014年末)

         

□永遠の二項対立?

 

 ここまで見てきたように、儚月抄には二項対立的視点で説明できる要素が複数あります。特に頻出だったのは儚い存在vs.絶対的存在という視点でした。それはなぜかということについてです。

 こういった二項対立の思考方法は、自機1vs.ボス1を中核とするシューティングゲームのバランス調整に不思議と似ているように思えます。たとえばボスの耐久力や弾幕をどう設定すれば、自機の性能、進んできたストーリーで得た展開とうまくバランスするか、という視点です。敵も味方も各々の持ち味の強さを発揮し、易しすぎず難しすぎずの歯ごたえがあると、それらの上にゲームとしてのおもしろみが生まれる、というのが一般的な考え方のように思います。このように、二項をバランスさせてゲームを生み出す思考を仮に、ゲーム作りの思考と呼ぶことにします。(これはあるもの正(テーゼ)と反対するもの反(アンチテーゼ)が合わさって、新しいもの合(ジンテーゼ)が生まれるという、弁証法的思考に似たものとみることができます。)

 

      合          ゲーム

 正 ←↑→ 反   主人公 ←↑→ ボス

              バランス調整

 

 これに対して、ユーザーが慣れているのはいうなればゲームクリアの思考です。勧善懲悪や異変解決、あるいは努力と友情による強敵への勝利といった図式をたどり、広い意味で、味方が敵を倒すことを目標とする思考です。ここでは、これにより生まれる達成感やカタルシスといった感覚的要素は除外して考えます。

 (ゲームクリアの思考は正-反モデル(異変解決モデル、勧善懲悪モデル)で置き換えることができます。)

 

          -----ゲーム-----

 正 ――→ 反  「  主人公 ――→ ボス

              勝利   敗北    」

 

 この違いは、お月見クリアの思考とお月見作りの思考の違いと似ています。

 

 -----お月見-----   -----お月見-----   

                「      雨月

   月見 ――→ 雨空 ×          月見←↑→雨空    」

 

 儚月抄は、バランス調整というゲーム作りの思考で編まれていますが、調整されたものは数値でなく価値です。その結果生み出されたのが「それをプレーしているときに肌で感じるゲームバランス」のように「それを読んでいるときに肌で感じる世界観」でした。見えないところに名月がおかれるように、バランス調整の妙は表面よりも深くにあります。戦闘で一方的にやられた雨空からも、構造を立体的にみることで名月が浮かび上がります。*1

 

 

□大結界のつくりかた(仮)

 

 大結界の出で立ちに関して、東方茨歌仙第25話「渾円球の檻」で新情報がありました。関連しそうな情報から、ためしに結界のつくりかたを式神的に説明してみようというものです。結界の成り立ちに関して以下で出す仮説はこの回のネタバレを含みますが、その後のストーリーとの関係では、せいぜいが補足説明の端くれになるくらいかと思います。数学ではなくあえていえば形而上学、また証明ではなく説明なので、くれぐれも過剰に信用しないようにご注意ください。

 

[茨歌仙第25話から]

  幻想郷と外の世界を分ける結界は常識を分ける境目、常識の壁

  そこに触れられる明確な壁はない

  境目に向かうと同じような景色が延々と続く

  引き返す時は一瞬で元の場所に戻れる

  物理的に、何処までいっても端に辿り着かない閉鎖空間

  紫は非ユークリッド空間とかなんとか言ってた

  常識の壁だから、生き物とかそれに付随する道具とか、そういった物しか隔てない

  上空に高く飛んで月まで行ったけど 結界の外には出られなかった

  形はドーム型かもしれない

  結界が割れれば空が割れて外の世界が現れる?

  博麗神社は境界上に建っている(だからよく外の物が辿り着く)

  プラネタリウム「天龍が不動星に喰らいついたとき―その時は天下を揺るがす何かが起こるでしょう」

 

[前提]

 ①結界によって隔てられた空間は閉鎖空間であり、その性質は「非ユークリッド空間」。(とかなんとか、に+αの要素がありうる点は捨象。)また新情報はほぼ境目の性質に関する話で、結界内部の空間の具体的な性質(たとえばどんな多様体か、曲率はどうかに関わるもの)は不明のため、空間については棚上げとする(空間が派手に曲がっているなら、ロケットが見える月を追うホーミング弾(パチュリー談)だったのが理に適っていたといえるくらい。)。結界自体は、非ユークリッド平面として非ユークリッド幾何学の公理系(ルール)に従うと考えられる。

 

 ②結界は日光や川、雲に干渉せず生き物に作用する。そこで、生き物を精神活動に拘束される存在と考えた上で、結界の機能は、「生物の精神活動を伴う運動に作用する」と読み替える。つまり、「物理の層」(物理法則)ではなく「心理の層」(結果の解釈)に働く結界と考える(東方香霖堂第26話)。

 

 ③魔理沙の体験談から、生き物は境目で特殊な動きをするらしい。結界の性質は常識の壁であることと非ユークリッド幾何学の公理系に従うこと以外は明らかでないため、仮にこの特殊な振る舞いを、非ユークリッド空間のルール(公理系とそこから導かれるもの)のアナロジーとする。その場合、ある生き物は結界からみて平面上の点にあたる。点の集合は線であると考えると、ある生き物の属する種族は、ある点を包含する集合として、平面上の線として表せる。

 ④非ユークリッド幾何学の公理系では、ユークリッド幾何学の平行線公準を否定する必要がある。平行線を互いに交わらない直線と定義すると、平行線公準は次のものと同値である。

「ある直線に対し、その直線の外にある他の点を通る平行な直線を一本だけ引くことができる。」

 

[球面幾何(楕円幾何)]

 ⑤ここで、平行線公準を次のように否定する。

「ある点を通る直線は、その直線の外にある他の点を通る直線と必ず交わる。」

(「ある点を通る直線に対し、その直線の外にある他の点を通る平行な直線を一本も引くことができない。」)

 

 ⑥平行線公準を⑤のように平行線は一本も引けないという形で否定すると、そのモデルは球面になる(球面幾何・曲率は正)。結界が渾円球の檻で形がドーム型なら、球面といえる。球面幾何を想定すると、直線は、球の中心を通る平面と球面との交線である大円、と定義しなくてはならない(測地線と呼ばれるもの。)。

 (⑦やや脱線。不思議な挙動はどう説明できるだろうか。仮に結界の中の地上がクラインの円板やポアンカレ円板のように双曲幾何のモデルを平面で表したもので、円周が無限遠直線であるために同じ景色で無限ループになるとすると、進もうとしてから戻ろうとするときには同じだけ時間がかかるはずで、一瞬で戻れることが説明できない。そのため、無限ループの効果は、とにかく何らかの形で出れないというルールが無限遠でない境界部分に設定されていて、心理の層で結果の解釈が変更されるものとみるのがよさそう。閉鎖空間というのは有界閉集合くらいの意味ととる。

 たとえば、球面は閉じた図形であるため、公理系としてユークリッドの公準2を否定し、有限の直線を連続的に延長することはできない、としなければならない。これは閉じた結界内部の空間についても基本的には成り立つ。結界の内から外に向けて進んでいくと、境目でこの公準が心理の層に働き、無限ループのように先に進めないという結果の解釈が生じる? 戻るときは関係がないため一瞬で戻れる。)

 

[結界の機能]

 ⑧ここで、常識の壁を挟んで幻想郷=非常識、外の世界=常識と対比されることから、結界内=「生き物の精神活動について非ユークリッド幾何学のアナロジーが成り立つ」、外の世界=「生き物の精神活動についてユークリッド幾何学のアナロジーが成り立つ」という対応関係にあると仮定する。

 ⑨すると、平行線公準は常識の壁になりそう。簡易化のために人以外の存在を妖と表記。

 ある点=人の属する集合[種族:人]に対し、その点の属しない平行な集合[種族;妖]が一つ想定できる。この二つの集合は、平行の定義から、交わらない(人間社会での妖怪の否定)。

 [種族:人]を[常識]、[種族:妖]を[非常識]に置き換えてもいいかもしれない。外の世界が常識の名の下に否定したものが非常識。

 ―Ningen――――――

  (平行線公準=常識の壁?)

 ―Youkai――――――

 ⑩平行線公準の否定形を幻想の住人に敷衍すると、生物の精神活動についての次のようなルールになる。

 ある点[=人]の属する集合[種族:人]は、その集合に属しない他の点の属する集合[種族:妖]と必ず交わる。同様に、ある点[=妖]の属する集合[種族:妖]は、その集合に属しない他の点の属する集合[種族:人]と必ず交わる。(人妖の必要的共存。)

 外の世界で常識がまず定義され、結界で交わるか否かが反転し、「外の世界が妖怪や夜の世界を否定し始めた事を逆に利用し、否定することによって物や力が流れ込む」(『東方求聞史記』p153)。反転作用は内部の非ユークリッド空間に続くと考えることもできる(3次元球面としての結界内部)。

 

[大結界(仮称)]

 ⑪幻想郷の空には、妖怪の星座と外の世界の人間の星座をともに見つけることができる。ここで、結界を張るべき場所として、中心となる地点からみて等距離のスクリーン(天蓋)を想定する。このスクリーンは球の形をしている。スクリーン上に星座が映る点を球面上の点とみて、任意の星座を通る球面上の直線を一本引く。天蓋に映った星座がある生き物を表すとみると、③より、この直線はその種族の生き物を包含する集合を表す(以下、種族線と略称)。平行線公準の否定形より、ある星座に対応する種族線は、その集合に属しない他の星座に対応する種族線と必ず交わる。生き物についてのアナロジーで言い換えると、各種族が他の種族と交点を持つ。

 ⑫直線を大円と定義しているので、直線の集合は球面になる。仮に星座の種類が十分に多いなら、種族線の集合から球面ができる。こうして球形の大結界ができる。結界を構成する公理系は、平行線公準の否定形によって「他の種族と必ず交点を持つ」=共存の命題を要請する。

 

 ⑬結界が渾円球(曲率の一定な球面)ならば中心点を一つ想定できる。この球面において、あらゆる直線は球の中心を通る平面上にあるために、他の直線と必ず交点を持つ。つまり、中心点は種族線の交差を生み出すものといえる。

 大結界が張られたときに姿を見せた、龍神としての龍がその候補となる。龍神は森羅万象を支え創造と破壊を行う最高神であり、幻想郷のあらゆる物質の相互作用(五行の相生と相克)をもたらす存在とされる(東方香霖堂・第19話)。『東方求聞史記』(p96) によると、龍神は“人間、妖怪共に、生きとし生ける物全てが崇拝する神である。”また、“最後に、龍が現れたのは博麗大結界を張った時の事である。天が割れんばかりの雷鳴と、水没するかと思われる程の豪雨に包まれ、暫くの間、昼も光が差さない闇の世界に陥った。妖怪の賢者達は、自分の存在を賭けて永遠の平和を誓うと、水は瞬く間に引き、空は割れ、地上は光を取り戻したと言われる。”

 生きとし生ける物全ての心にあり、物質の相互作用をもたらす龍神なら、種族間の共存を誓って大結界の中心とするのにふさわしいのでは。

 このように考えると、人妖の相互性、あるいは生物の多様性や力の均衡の重要性が、均整のとれた結界の維持のために意味を持ってくる可能性がある。*2

(龍に関連して、東方香霖堂・第19話にいう完全な三の世界(天、雨、海)や虹の七色がどう活きてくるかは不明。幻想郷の地上には海がないが、海=月とみるか(豊姫の山と海をつなぐ能力について、『東方求聞口授』p182より)、結界など別の何かが海の一を補うと考えると、一応要素は揃えられる。)

 

 

[もっとシンプルな別の説明]

 ⑭もっとシンプルに、別のものを結界上の点と一対一で対応させる方法もある。球面幾何のモデルは平面(複素平面)に無限遠点を付け加えることで得ることもできる。無限遠点は、平行線を無限に伸ばすと交わる地点として想定される、思考装置のようなもの。球面の頂点にある無限遠点からその下に置かれた平面をみると、球面上の点は平面上の点と一対一で対応する(こうして結界が作られたとすると、平面上の点としてはすべての平面上の点を含むので、外の世界も含めた常識と非常識、正常と異常、全ての事柄の表側と裏側といったものと対応する?)。

 無限遠点を取り除くと、平行線は交わらなくなり、ただの平面になる。無限遠点は北極点とも呼ばれる。無限遠点として、天蓋の北極星か、結界上にあって人妖の交差するあの場所を取り除くことで、結界は崩壊するのかもしれない。

 この見方では結界の機能についてまた別に説明が必要になる。実際の大結界は複数の説明からくるイメージを足されている可能性が高いのでは。たとえば張ることについては先の説明、壊すことについてはこの説明など。設定が増えれば、前提を共有する点まで戻ると整合するかもしれない。その前に間違っている可能性が大いにあることは、まあ、さておき。

 

 

■余談

 科学、宗教、哲学、数学といったものにはそれぞれアレルギーを持つ敏感肌の人がいます。その気持ちもよくわかるところがありますが(それは自分もあまりこれらをよくわかっていないからですが*3 )、個人的にはとくに気にしなくていいんじゃない、というスタンスです。

 

□視点1~3の裏方さん

 博麗大結界のできる少し前のことです。ユークリッド幾何学の誕生から二千年以上たって非ユークリッド幾何学が発見されると、絶対的なものとして信じられていた数学の体系が、みなで合意した単なる常識にすぎなかったことが明らかになりました。その影響は数学のみならず、西欧近代諸学全般への懐疑の視線として表れます。

 その流れの中で現れたのが、たとえば、視点2で価値観の折衷(ゲームのバランス調整の感覚とおそらく同型のもの)について引用したレヴィ=ストロースです。彼は、西欧数学の最先端がアルカイックな伝統的社会の思考と同型であることを示し、思想におけるヨーロッパ中心主義を覆しました。ソシュールの言語論✕モースの贈与論(視点2と3の接続)✕射影幾何学レヴィ=ストロースの手法を生んだアイデアです(構造主義)。

 上記の結界作成法の⑭は射影幾何学に通じるものですが、射影幾何学の創始者の一人にパスカルがいます。考える葦が無限の空間に勝つというアマノジャクの哲学は、後の時代になって、点と平面を双対にし、儚いものと無限の広がりを対等に扱う射影空間として数学的に実現します。儚月抄における儚い者と絶対的存在を対等に扱う構図(視点1・3)は、いうなれば射影幾何学の思考です。

 

□構造

 射影幾何学は、早い話が、遠近法の数学における発展形です。先の輝針城と儚月抄の対比はまさしく遠近法のようなものです。そこで用いたものは、構図の把握、ポーズの把握などにもおそらく通じる全体観と比較の視点であり、物の特徴と構造のロジックをとらえて推理する目でした。

 また、ボスの類似性のたとえとして用いた同じコードという言い方には、二つ意味があります。

 一つは、音楽のコードです。コードの響きは単純化すると周波数比=変わる調性の中で変わらないものであって、射影幾何学も、変わらない構造を抽出する比(複比)の数学であるためです。あるいは構成全体についてみると、輝針城は儚月抄に近い主題を持った変奏曲といえます。レヴィ=ストロースは、対比可能な構造が見いだされる神話とそのバリエーションを、原曲と変奏曲の関係になぞらえます。「人間の生み出したもので神話の本質についてもっとも参考になるのは音楽であるように思える。」(『生のものと火を通したもの 神話論理1』p41)と述べる彼にとって、物語の構造の発見は、曲の構造を把握することと同様の作業です。

 もう一つの比喩は言語についてで、言語表現と意味内容を分離してとらえるソシュールの言語論的なコード(シニフィアンシニフィエ、ラング)です。たとえば、輝針城における「付喪神」は儚月抄の「人間」と、輝針城の「人間」は儚月抄の「月の民」と、全体のテーマとの関係において同等の意味内容を持ってきます。「コード」と口で言っても集団によって理解の仕方が違うように、「犬(inu)」と言ったときに何をイメージするかといったことは元々恣意的で社会文化的な取り決めにすぎません。

 

□もう一つの渾円球

 そのように恣意的な社会的規則にすぎない言語同士を比べて、あの言語よりこの言語が高次の発達段階にあるという意味はあまりありません。ユークリッド幾何学も非ユークリッド幾何学も、ともにある種の社会的規則であってどちらが絶対の真理でもなかったのと同じです。恣意的な取り決め同士の関係を同時代の人間の文化に当てはめると、ある文化の社会的規則(西洋文明)の別の文化の社会的規則(アルカイックな社会)に対する優越を疑う、レヴィ=ストロースの目線に行き着きます。そこで思考を支配する同型の構造が見つかるなら、人間の知恵に普遍的なものがあることを認めるほかありません。

 

 ある面において確かに、科学も宗教も哲学も数学もすべて一つのもの、この世を理解する手段です。『東方求聞口授』では次のように述べられます。“冗談はさておき、宗教ってのはこの世を理解する為の手段なのよ。科学も魔法もみんな同じ、ただ一つの学問。(中略)種類があるのは使っている言語が違う、というレベルよ。言葉が異なれば主義主張も歪んで伝わってしまい、喧嘩する事もあるでしょう。でも全宗教を通してみんなが望む事はただ一つ。”(第五部対談「宗教と信仰は幻想郷に必要なのか」、p134)儚月抄の視点としてみてきたものも、ラフに全体像を振り返ると、歴史&哲学、生物学と生態学神道神道と仏教&哲学、社会学&政治思想といった観点の交差がありました。

 言語と言語の運用能力は別物で、運用の達人はどこの言語圏にいてもおかしくありません。諸学はそれぞれ世界を独自の方法で区分し説明する取り決めであって、一つの言語といえます。世の中の動きを形作る政治、経済、法律、技術等々も、体系を異にする社会的規則の制定と運用です。音楽、絵画、ゲーム、文学それぞれの方法論には、感性を共有する集団による文化的規則があります。体の動きを支配するのは、物理と生活の法則です。こうして人間が関わる各分野を異なる取り決めの体系同士だとみると、本当に偉大で美しい考える葦の汎用能力は、そのどこにでも存在する可能性があり、あるいはないかもしれません。またブレイクスルーや非連続的な変化というのは、一つの取り決めの中の死闘を越えて、境界を越えて共有される直観によってもたらされないかもしれないし、もたらされるかもしれない。命名決闘がそうして創られたように。

 味わうことも作ることも、○○クリアの思考と○○作りの思考くらいの違いはあれど、本来、原理的には同じ汎用能力を鍛える場になりうるのでしょう。しかしあいにくきちんと曲を書いたり絵を描いたりできるわけでもないので、これ以上は考察が進みません。

 

 今までみてきたものの裏にあるのは、つまりこういうものでした。

 振り返ると… 何を言っているのかわからねーと思うが  おれも よくわからない。

 ここには確かに、人間の知恵が全部どこかでつながっていて、予想のつかない発展可能性をもつような、一つの世界(The   World)があるのでした。

 

 

*4

*1:なぜ至上の価値が美しさと思念で並び立つのかについていえば、均整を求める美意識は思考を前進させ、思念は美しさを時々もたらすという意味で、美しさと思念は切り離せない関係にあるからという気がします。そのことを端的に表すのが弾幕です。スペルカードルールは必然的に、全てが弾幕の魅力の為にある、という大元の価値観に還元されます。

*2:東方求聞口授』p8・第一部対談白蓮発言「幻想郷が今の形を保つ為には、妖怪の力がなければなりません。(*4)」への阿求による注「*4正確に言うと結界の力さえ有れば問題ないので、これは妖怪がよく使う詭弁です。」への再反論。

*3:ちなみに、私の正体について、この文章に表れた分野はとくに判断材料にならないはずです。個人的に他に同様の文体で何か書くこともありません(似た文体もしくはですます調で、考察や学術的な創作物を発表されている方もいるので念のため)。物書きや評論家や学者や学生や教師や、詩人や役人でもありません。素材はともかく、文章自体は大学などで多少しっかりやっていれば書ける程度のものです。世の中にはもっと上をいく化け物がいます。

*4: ある種のポストモダンな批評家は、多極分散的社会のモデルを一次創作と二次創作の関係にあてはめて、原作なるものは、絵とプロフィールと変数を付与されたキャラクターや設定のデータベースとして消費されるものにすぎないという見方を示します(データベース消費論)。そんな立場からすると、商業流通か同人流通かといった形式的な違いも好餌となりかねません。

 この文章はポストモダンをどうのこうのしたいわけではありません。科学と人文その他もろもろの交差は肯定し、その上で語句を慎重に使うスタンスでもあります。

 ただ、全体として、読んだ人が次の直観を持つことに役立つかもしれません。

 データベース消費論者は、データベースという理解で満足した時点で、大事なものが見えなくなっています。それはあたかも、ボスとのバランス調整を否定したファンタジーであり、構図も全体観もないデッサンであり、進行のないコードの羅列であり、射影平面とただの平面の混同であり、互いに負うものを忘れた共同体であるからです。

 もちろん、逆の面もあります。二次創作からみればデータベースのように軽い要素の集合として捉えた方が扱いやすく、硬直したキャラクター同士の関係も乗り越えやすく、固定観念を打ち破る新鮮なものが生まれやすい側面は当然にあります。キャラクターからアクションに焦点が移行すれば、「考えるな、感じるんだ」(ブルース・リー)という真理の逆転さえ生じます。

 つまりは、緩やかな多極分散の形態が創作全体に存在しうるように一次創作が二面性を持つようになっていると言えば足り、背後の構造を放棄した設定の集積というイメージは勇み足だったように思います。(原作も何かの影響下にあるということを持ち出すまでもないようです。)

 したがって、運悪くこれを読んでしまった人が、自身に都合良くいいとこ取りをしてくれることを願いつつ、筆をおくのが良さそうです。